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ぼやいてみようと思う

・授業研究に参加して
私の勤務校のある地区の研究。
教科は理科。
結局は教師の教えたいこと、押さえたいことに導くわけだから、「◯◯を確かめるにはどうしたらいい?」なんて子どもたちに聞く必要はない。
一人の子が「ピンポン玉を使いたい!」と言うと、「それは次の授業でやろうね」と教師は返す。
なんのための発問だったのか。
あたかも子どもが主体性をもって考えている雰囲気をつくりたかったのか。
言葉は悪いが、あんな嘘をやってはいけない。
あの子のあの時間の、あの気持ちはどうなってしまうのだろう。

そう感じてならなかった。

一部の子どもが発言して、あたかも子どもの意見から問いが生まれたように進めていた。
あれも、嘘である。

そんな嘘をつづけるのであれば、わざわざ子どもに問いかけず、教師が用意した道具を始めから示せばよい。

そして、授業の中心的な問いは教師が示してしまえばよいと感じた。

協議会では、そんなことは話題にされない。

教科の専門的な話題が繰り広げられる。

まぁ、協議の時間は10分ほどしかなかったが。

う〜ん・・・という冴えない気持ちで研究会を終えた。

ただ私もそういった授業をしてきたことはある。それでも、そういうことから脱却しようと色々とトライしている。

そう気づいて改善に進もうとしているなんて、もう私なんか遅い方だと思っていた。今日、授業された方は、私よりも経験年数は高い。

「経験年数」ということにも疑問と晴れない気持ちを抱き帰路につく。

教育の改善というのは、かなりの高い壁が身近なところから立ちはだかっている。

道のりは長い。

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