見出し画像

「学級崩壊」について考える

先週金曜日のこと
19:00〜

授業づくりネットワーク理事長の石川晋先生の国立連続講座があった。
今回のテーマは「学級崩壊」

はじめに、晋先生が以下にお話された事例は、先生方のご努力で、今は改善されている。ということを記しておく。

ある小学校の過去に大変だった事例をご紹介いただいた。
6年生が伊能忠敬を扱った授業。
導入として日本地図を子どもに描かせた。

どれも、6年生とは思えないほど、日本列島が認知できていない状況だったという。

その授業の現場にいた晋先生とその学校の支援員さんが、こういった会話を交わしたらしい。
支援員さん「この子たちは、雑なんですよね。」
晋先生「いや、雑なんかではないと思います。この子たちは6年生になるまでの間、彼らの認知に歪みがでてきてしまっているんだと思いますよ。」
と。
目の前に見える事実だけで、さらに子どもでき具合に原因を置くのではなく、目の前の子どもたちがどのような経緯で今そこにいるのか。そんなことも考えなければならないと、改めて痛感した。

次は、こちらも過去に大変だったある中学校の事例もご紹介いただいた。

授業中に携帯ゲームをしている。
廊下にはある6人くらいが屯している。その中の1人が、人差し指と中指を2本立ててあいさつするかのようにポーズをとったそうだ。
一服しに行くというポーズだそうだ。
その生徒は、授業をしている自分のクラスに一服してくることを合図し、教室の中にいる仲間も動き出したという。

その中学校は、授業中にもかかわらず、廊下に何人もの教員が「トランシーバー」をもって立っているという。生徒の問題行動を連絡を取り合っているそうだ。

晋先生は、この中学校はプリントを配って黙らせているだけだとお話しされていた。
また、「つまらない授業には、生徒たちはどんどん離れていく」と。

そして、授業改善が少しずつ進み始めている教室のことをお話しされた。
荒れが顕著な生徒は廊下ではなく、廊下と教室の間、つまり、廊下と教室をまたぐ出入り口のドア付近で、輪になってゲームをしている。
これを晋先生は、少しずつ教室に戻りつつあるとお話しされていた。
“教師が変われば子供も変わる”という、私の大学の創立者が言っていたことが不図思い出された。
そして、荒れていようとも、教師の授業改善、子どもの学びに対する教師の意識が変われば、子どもはそこに向こうとするのだと、確かめられた。
子どもというのは、学びたい、成長したい、前へ進みたいのだ。そういうことを、改めて感じた。

次は、ある学校の1年生の授業について。
詩を読み取って、音読をする活動。

読み取りをしている時に、聞いていない子、音を立てる子、詩の内容を体で表現した勢いで廊下に出る子など、「散らかっている」というような状態だったそうだ。担任の先生は、ベテランのようだで、特段注意はしていない。

しかも、ざわついていても、丁寧に一つ一つの言葉に込められた情景を子どもと読み取っている。さらに、ざわついた状態でもペア読みをさせていたそうだ。
落ち着かない子どもたちに対して、日本語の豊かさを確かめ合い、さらに協同的に学ぶ活動を取り入れるという、担任の先生の熱心さがあった。

詩の内容を体で表現しながら廊下に出てしまう子は、散々はっちゃけた後、ペア学習に取り組んだという。これは、担任の先生の個々の実態をよく把握している表れなのではないかと感じた。

きっとその教室には、その教室なりの学びがあるのだろう。
でも、そこは「学級崩壊」という枠に入ってしまっている。
学級崩壊はどうして起きてしまうのかは、今後も事実を通してよく考える必要があると感じた。
晋先生からいただいた資料もよく読み返していこうと思う。

同じ学校ではない、同じ地域ではない学校の、教室のリアルな様子から「この教室はダメだ」「経験上、◯◯すればおさまる。」「この教師の◯◯が悪い」といった指摘ばかりするのではなく、“明日は我が身”という意識を大切にし、学級崩壊を考えることはとても重要だと感じた。

私は、前任校でクラスの立て直し的な役割を2回経験した。私のその2回は、果たして役に立ったのだろうか。当時、子どもたちが大好きだったベテラン教師の名前ややり方を常に突きつけられながら過ごしていた。卒業させたクラスの年の子から「先生もなかなかいいね」と手紙をもらったが、素直には喜べなかった。
自分は何もできなかったとしか思わなかったからだ。
これまで、学級を立て直した経験を自信をもって話す教師がいるが、私には到底真似できない。
恥ずかしくて話せないからだ。

立て直しを経験した2回目の時、私は本気で教師という仕事から逃げたかった。妙にイライラしていて、意味もなく駅の人混みで物や人をぶん殴りたくなるくらい、精神的に荒れていた。
周りの“立て直し”の期待と自分の未熟さや甘さ、理想などがぶつかり合っていたのだろうな。
それでも、2回の立て直しの年を過ごせたのは、当時の勤務校の先輩方、同期、後輩などの同僚の支えがあったからだ。
この時から、教師の協同性の大切さに気付いていたのかもしれない。

もちろん、眠いのに話を聞いてくれたり、イライラしているのを知ってソッとしてくれたりした亡き母の支えは大きすぎるほどだった。本当にありがたかった。

話を戻して、晋先生の講座のありがたさをつくづく感じる日だった。
リアルな現場をご覧になった方のお話を聞いて、感じて、考えることこそ意味があるし、得るものが大きい。
今後、私自身も崩壊の教室や学校に身を置く可能性は十二分にある。

これからも自らの経験を過信せず、全国の中で起きている様々な崩壊に目を向け、心を向け、自分を見つめ、“子どもの学び”、“子どもの幸せ”、そして“教師の協同性”、“教師のやりがい”、“教育のアップデート”を追究し、自己を磨いていきたい。

最後にもう一度。

晋先生がお話された学校は、教室は、先生方のご努力で改善されている。

この「先生方の」という、職員集団のあり方も考えさせられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?