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パッションに向かい合いたい

第三回教養のエチュード賞が始まっている。

この賞は思い出の賞だ。noteにやってきて、ひとりポツンと文章を書いては消ししていた頃、だれか返事してくれる人が欲しくて参加した。

入賞や評価を求めたのではなく、ただ純粋に「誰かいませんか~?」と呼びかけたかった。初めて都会に出て一人暮らしを始めたのと似て、道行く人は多くても見知らぬ人ばかり。誰も自分のことは気にもかけず、群衆の中の孤独のようなものを感じていたときだった。

嶋津さんが必ずひとことはお返事を下さるというのがなんともありがたかった。誰かのリプライに飢えていたから。それで、なくなってしまった古いブログ記事を書き直して昔の思い出を投稿した。それが「教養のエチュード」にふさわしかったかというと、全然合ってなかったかなあとは思う。

で、今回。

三回目も参加しようと思ってはいたけれど、ここにきて「書くことが思い浮かばない」というスランプに陥っている。いや、「思い浮かばない」のじゃない、「これ違うんじゃないか」という思いが強くて書く元気がわいてこない、かな。

なんで「違う」と思っちゃうんだろう。

先日、たなかともこさんが「教養」という言葉について書いていて、うんうんとうなづいたんだけれど、教養があるって何も知識が多いことじゃないと思う。自分と違っていても相手の視点が取れること、最初は共感できなくても理解しようとすること、知らないことは「知らない」と言えることなんか、教養があることのあらわれではないだろうか。

逆に「教養がない」と思うのは、知識がたくさんあることを自慢したり知識がない相手をさげすむ姿勢や、いたずらに自分の知識のなさや背景を卑下する態度。マウントするのも、マウントを一方的に責めるのも、両方教養が足りないように思う。心の痛いところを突かれて攻撃に転じてるとか、そういうコミュニケーションばかりの中で生きてきて他を知らないとか、教養以前にいろいろあるけどね。

さて、嶋津さんの賞は教養の「エチュード」(練習曲)なんだから、何でも思いきり書けばいいのだ。教養がなければ人の作品を読んで「そうかあ」「すげーー」「いいなあ」と感じればいいのだ。自分も、臆さず今考えていることや感じていることを書けばいいんだ、そう思うんだけど、思えば思うほどいろいろなテーマがスルスルと頭から逃げていく。

そこには、書くからには多くの人に届けたいという余計な色気が隠れている。あわよくば今まで知らなかった人にも読んでほしい。あわよくば嶋津さんの心をちょっとでも動かしたい。あわよくば「ちょっと心が動く人」がたくさんいて欲しい。そんな欲張りな気持ちがあると、手は途端に動かなくなる。

だけど届けたいものって何だろう?

いま書きたいことって何だろう?

自分の中から湧き上がるもの。誰か。何か。

もっと若かった時のように身体の奥底から突き上げるパッションはなかなか感じられない。パッションにも体力がいるのだ。年を取ると長時間眠ることができずに何度も起きてしまうのと同じで、パッションをほとばしらせるにも筋力や持久力がいる。そうしたものを少しずつ手放している今、そのままでひとの心に直に訴えかけるような何かがわき上がってくることは少ない。何事も中庸で、年の功なのか表も裏も見えて、どこかに肩入れしてぐんとエネルギーを放出することが難しい。

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それでもなお、何かを伝えたい。人と繋がりたい。人と共感しあい、思いを分かち合いたい。


繋がるために自分はどんな材料を持ってどんな料理を出せるのか。賞であろうとなかろうと、書くこととは、それが問われているのだ。何を伝えようかどう伝えようかと悩み考え、正面から言葉や表現と向き合ってふりしぼるように気持ちを伝える。その「正面から向き合う」ことが求められているのだ。それにも体力がいるから、自分はそこで息が切れて足踏みしているのではないかと思う。やはり筋トレかな、まずは。

まだ見ぬ誰かと関わろうとすること、関わりたいと思うこと、その気持ちこそがパッションかもしれない。長い経験を積んできたからこそ見える景色がきっとあるはず。書くことと向き合い、伝えたいことを自分の中からわきあがらせるために、地道でも一歩一歩あゆんでいきたいと思う。


【追記】

これは「第三回教養のエチュード賞」への投稿作品ではありません。投稿への準備運動、かな? 元気を出し肩の力を抜いて、投稿作品が書けるよう自分で自分に願っています。


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