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本読みの履歴書 10

森野の本履歴、やっと高校まで来ました。前回の「履歴書」はこちら。

この「本読みの履歴書」シリーズは「読書目録」というマガジンに入っています。読書民はどうぞフォロープリーズ。共に楽しめる本があればうれしいな。
なお、この一連の記事では小説類もエッセイも全ネタバレしてますので、そのへんはご了承下さい。

まあそれまでもそういう傾向はありましたが、高校でも変な本ばかり選んで読んでいました。主に海外の翻訳物を。

<高校の図書室編>

図書室は高校の校舎の4階にあり明るく見晴らしが良かったです。高校の校舎は私たちが在学してかなり経ってから建て替えられたので、今はどこに図書室があるのやら。あの本たちはまだあるのかな。もう半世紀近く前になるのですね。
ともあれ、高校で書庫をウロウロする楽しみを覚えました。


55.シモーヌ・ド・ボーヴォワール 「娘時代」 紀伊國屋書店

小説でも評論でもなく、自伝。
「女ざかり」「ある戦後」「決算のとき」と続くのですが、学生時代について書かれたこれが一番印象に残ってます。

多分、自分が高校生で、同じような時期のことが記されていたからでしょう。遠いフランスという国でなんだかとても活躍してた女性の十代はどんなものだったのか知りたいという好奇心かも。「印象に残った」割に今は中身をほとんど覚えていません。ザザという友だちが死んじゃってボーヴォワールがショックを受けていたことくらい。

さらに、「第二の性」とか「老い」とか読んでるわけではないのですね。サルトルも、なんか読んだような気もするけど脳をするーっとスルーしていきました。木の根っこを見て吐き気を催すんだっけ? 


56.ファウルズ  「コレクター」

いったいどうして「コレクター」なんて、無関係な女性を拉致監禁し結果として殺してしまう変質者の話を読もうと思ったのか??? まあ、読む前にあらすじを知っていたわけではないのですが。 
でもよくわかんないですね、高校の頃の自分。

この話、映画化されていて、最初の映画ではサマンサ・エッガーという女優さんが監禁される女性を演じていました。この人はその前にテレビドラマ版「王様と私」でアンナ役(かつてのミュージカル映画ではデボラ・カー、その後、ジョディ・フォスターも演じた)を演じていて、そのテレビをなぜか毎週見ていて好きだったんですよね。どこで放映してたのかな。民放だったと思うのだけど。このときの王様はテレビ版でもユル・ブリンナーだったです。若い美少年好きの森野としては珍しくおじさんで好きな俳優さんでした。

で、なんで「コレクター」を読もうと思ったのかなあ? 俳優つながり?
未だに謎。


57.ハクスレー 「すばらしい新世界」
58.オーウェル  「1984」

両方ともディストピア小説の金字塔。なぜこれを読んだのか、ますます謎な高校時代の森野であります。今だったら絶対に読まない。

ディストピア作品は、自分に元気があって未来が無いと鑑賞できないという気がしています。今の自分は老年期に入りつつあり黄昏れてて体力も無く、ディストピアや嫌ミスを鑑賞すると(読書だけでなく映画とかドラマとか含む)、とことん落ち込んで這い上がれなくなってしまいそうで。

この2冊は同じ本の前半と後半に入っていました。いま調べてみたら、どうも早川書房の世界SF全集の一冊だったみたい。そういう全集ものを揃えていたんだな、高校の図書室。偉いぞ!

どっちが印象に残っているかというとハクスレーの方です。生まれた時からアルファ、ベータ、ガンマ、デルタみたいに階級分けされていて(もちろん遺伝子レベルでそういったことになっている)、「その階級でよかった」ということをすり込まれる人々。ベータの子どもたちがいるところでは「ベータに生まれてよかった。アルファだと大変だし、ガンマはいやだし……」といったアナウンスがずーっと流れていて洗脳されていくの。
そしてみんな人工的な試験管ベビーであり、実際に「親である人間から直接生まれる」のはものすごく野蛮で忌避すべきこととされています。

なんかそういうマンガもどこかで見たような気が。ハクスレーのこの小説にインスパイアされていたのでしょうか。

59.クノー 「聖グラングラン祭」
60.クノー 「地下鉄のザジ」

これもなにかの全集の一部でした。探してみたらこの2つ(最後にもう一編入っていた。それは面白くなかったので記憶にない)が一緒になっているのは、中央公論社の「世界の文学 新集」というシリーズみたい。今回ググって、記憶から消えたのがベケットの「名付けられぬもの」という小説だということを発見しました。

「聖グラングラン祭」は、わけわかんない伝統的なお祭りをしなきゃならないんだけど全てがしっちゃかめっちゃか、という記憶。「地下鉄のザジ」の方は、ザジという女の子がパリに来て地下鉄に乗ることを楽しみにしてるけど、次々に邪魔が入り乗れない……という話。どちらも伝統的な「物語を語る」小説ではありません。筋も訳わかんなくて現代アートみたいな感じ。
なんだけどこういう変な小説が好きだったんです、この頃。

その後、どこかの民放で「地下鉄のドジ」っていう子ども番組があって、いったい誰がどういうつもりでこのタイトルを付けたのかと思いました。よほどこの作品が好きだったディレクターでもいたのか。
でも内容はクノーの小説に何の関係もなかったような。なんだったのでしょう。

 

あとは、一時、日本文学を読もうとしたんですよね。宇治拾遺物語とかそういった「お話」系は子ども向けのリライトで読んでいたのだけれど、せっかく高校で古文も授業にあるしって事でいろいろとトライしてみました。

最初に、与謝野源氏を読もうとして挫折。選択が悪かったか? 当時既に円地文子の源氏が出ていたのでそちらにすれば読めたのかな。今だったら橋本治のを読んだら読めたのかも。いや、大和和紀の「あさきゆめみし」を読めばよかったのですね。前回書いたように、どうしてだか講談社のマンガは全然手に取らなかったんです。そして当時は漫画家さんは出版社専属状態で、大和和紀先生は講談社以外で描いてなかったのでね。

なにかの随筆も挫折したなあ。なんだっけ?

とにかく日本文学系統は古典も近代も現代もことごとく挫折。
漱石も三島も太宰も川端康成も、なんか手当たり次第に読んでみたけど心に触れず。せいぜい森鴎外くらいでしょうか。なぜ日本のものは好きにならないんだろう? 心が動かなかったです。文豪の日本文学を味わうほど力が無かったのでしょうね。

半世紀の年月を経ていま読んだら全然違うかも。

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