2月のお題をいただいて
この記事は「note的な何か」というマガジンに入れています。
ふだんは「ですます」調の少しおとぼけなエッセイを書いていますが、ここに入れる記事はどうも「ですます」調では書きにくいものが多いです。考えや感じ方を述べる時はそうなってしまうのでしょうか?
ひらやまさんが2月のお題を下さった。というか、勝手にもらってきた。
ところがボヤボヤしているうちに2月が終わってしまうではないか! せっかく書くためのスプリングボードを作って下さったというのに。
このテーマはすべて何か書けると思うのだけれど、一番最初に書きたいのはどれかな。一番書きにくいのは「自分らしさ」だと思う。あるいは「自分の感受性」。要は自分のことがよくわかっていないのか?
とりあえず「noteを書けない気持ち」でいってみよう。
noteを書けない気持ち
自分が「noteを書けない」という時、大きな理由が3つあると思う。
ひとつは要求水準の高さ
もうひとつは自己開示への抵抗
そしてターゲットの不明瞭性
じゃあどうしたらいいか。
要求水準が高い
書けないわけではないのである。
気持ちをダラダラたれ流すのはできる。何がおいしかったとか、どこがきれいだったとか、疲れたとかしんどいとか。何かを見聞きした軽い感想を書くのもそれほど難しくない。思ったことをただそのまま文章にするのなら。だから「つぶやき」なら毎日でも更新できる。
でもそれはツイッターでいいんじゃない? と思うのだ。
そうじゃなくて、
・主張点を明確にし
・起承転結を意識し
・人の心に訴えるものを書きたい
との「自分の妙に高い要求水準」が文章を書けなくしているのだという自覚がある。いいものを書きたい、少しでもアピールしたい、という。志が高いのはいいことなんだけど、同時に文章を書く手を鈍らせる。
さらに、要求水準は何も書いていなくてもどんどん上がる。
他人は何を書いているんだろうか、他人の文章を読んで楽しみたい、感性を磨きたいと思って読みふけると、一部noterのすばらしい記事を読んでしまってああこのレベルのものが書きたい、と思い、さらに目指す基準をあげてしまう。
その結果、さらに書けなくなる。
だけど感じたことをただ順番に書いても何もおもしろくないでしょ?
「新着」タブをクリックして見ていくと、ものすごくたくさんの記事があり、多くがあまり読まれていないようだ。正直なところたくさんのnoteの中で「ものすごくおもしろかった! 掘り出し物!」というのは少ない。自分のもあまり読まれないので、それほどおもしろくないのだな、なんだか書いてても仕方ないなあと思えてくる。
ややこしい自己開示
自己開示への抵抗がある。
自分のことを知ってほしい部分と、知ってほしくない、書きたくない部分とがせめぎ合っている。これは高くなる一方の要求水準と比べるともう少し複雑である。
あたりまえだけれど人と繋がるには自分のことを知ってもらう、つまり自己開示が必要だ。自分をすべて隠したままで他者と仲良くなることはできない。まったく自己開示しない人と一緒に仕事をするのは、仕事オンリーだとしてもやりやすいものではない。
リアルな毎日を考えれば、この友人にはこのことを知ってもらいたい、あの知人にはこんな個人的なことを話す筋合いはない、といった風に、私たちは人ごとにトピックを変え、開示内容を変えながらコミュニケーションを取っている。しかしwebでは相手により内容を変えることは難しい。相手が見えないから。
Facebookは本名で持っている。仕事とは関係ないのでクローズドにしているが、それでもいつの間にかかなりたくさんの異なった友人知人が増えてしまった。中には仕事関係の、さして自分の個人情報を公開したくない人まで混じってしまい、このごろあちらではご飯と天気と花の話以外したくない状況となっている。もちろん、内容によって見せる相手を変える機能は使っているが、それでもエッセイ的な文章は書きづらい。まして小説だの詩や短歌、俳句といった創作系統は非常に載せにくい。noteでも書いてないけど。
noteではもっと自分の考えを、どこにでもいる一個人として、発信したいし繋がりたい。だけど自分をどれだけさらけ出すかについては結論が出ていない。
初心に戻ってみよう。
最初にこの媒体を選んで書きはじめたのは、自分の感性や思考を文章化し、他人にわかるように書く場数を踏まないと、どんどん老化して認知症にまっしぐらだ、という焦りがあったからだ。
書いていくことで多少その焦りは収まった。感性や思考が鋭くなったかはちょっと置いておくけど。だけどリスポンスがないところで書き続けても、本当に相手に伝わる文章が書けているのか、論理は破綻していないのか、わからない。自分で書けたと思っても反応がなければ、やっぱり伝わらない文章なのではないかと思えてしまう。
それが続くとモチベーションが低下していく。自分は誰に読んでもらいたいのだろう? 読者として不特定多数を想定しているの?
ターゲットの不明瞭性
書いたnoteの読み手って誰なんだろう。
漠然と「読んでくれる人」と思っているけれど、それはいったい誰のことだろう。
わたしのnoteは、せいぜい一記事に50~100ビュー程度である(スキはひと桁だ。しかも何も読まないでつけているんじゃないかと思われるスキもある)。100ビューのうち親切心や友情で読んでくれるリアルな友人知人が一割だとすると、あとの90人は通りすがりである。二度と来ない読み手も多いだろう。
そういうフリーの読み手をどこまで引きつけられるかが文章力や内容だろうが、リピーターを生み出すほどの力はない、というのが現状か。
コンテンツの問題もある。こちらの方が大きいかも。
今は書きたいことを書いていて、記事ごとにアピールする領域が違う。ということは記事ごとに違う読み手に届かないとあまり意味がないということだ。友人だって、観劇に行く友人と、ただおしゃべりがしたい友人と、一緒に買い物したい友人は微妙に違うことがあるじゃないか。自分の好きなことを書いているだけでは虚空に向かって手当たり次第に豆を投げているようなもので、同好の士は見つからない。同じテーマでいくつも投稿を重ねないと人の目には止まらない。
じゃあどうしたら
要求水準についてはひとまず目をつむるかな。書き流しでも書かないよりはいい、そのうちうまくなるかもしれない。
文章修行をするためにどこかの講座に通う、というのもアリかも。通信添削とかカルチャースクールとか。だけど正直に言うと、それをやるくらいなら時間を別のことに使いたいなあ。
自己開示はそろそろ進めていこう。自分の好きなもの、好きなところ、感じたことを少しずつ。一度にフルに自己紹介しなくても良いのだ。
書く内容についてターゲットを絞って同じテーマで統一する、ってのはアリかもしれない。けれどそれは必ずしも自分の書きたいことではない。料理は好きだが、いつも食べ物の話が書きたいわけではないのだ。本も読むし旅行もする。仕事から触発されて書きたいと思うことだってある。
とどのつまり、このまま心のままに書き続ければいいってこと?
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