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昭和のgifted - 51 水に流すVS覆水盆に返らず

前回のお話しはこちら

私は度量が狭いのか?

前々回の譲歩の話と被るかもだけど水に流すのが苦手。

「嫌なことは水に流して。」

と、人は言うけれど私の場合は忘れるのが苦手だからどんどん水が貯まっていく。気にしないようにしててもチクッとする様な嫌な感じがどんどん貯まっていく。流れていかないから表面張力ぎりぎりまでは頑張ってみるけど、そのうち決壊してしまう。

覆水盆に返らず。

一度この人ないなーとか、嫌いだとか苦手と思った相手は二度とフラットに話すことができない。

顔見るだけで
マウント取ってくる奴だ!逃げろ!
嫌なこと言ってくる奴だ!逃げろ!
馬鹿がうつる!逃げろ!

そういう人と関わりたくないし、決別の道を選択できるようにしたいから個人事業主やってるんだ。普通の人ができていることを簡単に私ができると思うなよ。

矛盾問題じゃないけれど、水も相反するものの例えに両方使われてるなと思った。

たださ、結局のところ嫌なことを水に流しても下流だと嫌なこと貯まるよね?水に流した嫌なことってどこまで流れていくんだろ。大海原レベルの広い心を持てば盆にひっくり返さなくてすむのかなぁ。

ひっくりかえった水は元には戻らないけれど、最近少しだけ大人になれたかなと思うのは嫌だと思う人のどの言動が嫌なのかをきちんと整理できたら嫌だと思わずに接するくらいはできるようになったことだ。

ちゃんと心を閉ざして人と接することもできるようになったけど、相手はそんなのわからないだろうからポイントさえ押さえれば機嫌もよくなりマウントも取らなくなる。

が、わりとこればっかりやってると疲れるので極力接する時間が少ない状態を作ることが自分のためでもあるかなと思っていろいろ試行錯誤してみている。

まぁ私が苦手だなって思う人てわりとの確率で他の人からも苦手って思われてることが多いようなので、余程のことがない限り自分の勘にしたがって脱兎の如く逃げ出しても問題はない。

ただ社会や組織の中でそう思いながらもコミュニティに属して気を使いながら日々を過ごしている人たちのことを偉いなぁと思うし、なぜ大多数の人ができていることが私はできないんだろうという自己批判的な感情があって簡単に逃げ出すことをよしとできないでいる。

私は度量が狭いだけなのか?それとも自分に厳しすぎるだけなのか?

今までは自分以外のサンプリングが少なすぎたのと、母からの「どうして普通の人ができることをできないの?」という不必要だった心配が枷になって自分を責めてきたけれど、自分がギフテッドかもと思うようになってから、同じ様な経験をしている人の話を聴いて、私の話を聴いてくれる人が増えたお陰で少しずつ自分を責めることが減ってきている。

覆水盆に返らない。

だけどちょっとでも掬える水があるのかもな、と思ってひっくり返っただけで諦めてしまうということが最近では少なくなってきている。

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