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映画「鳩の撃退法」の撃退法①

※この考察は一個人の解釈であり、映画「鳩の撃退法」及び「鳩の撃退法」原作から事実と考えられるかもしれないことを繋ぎ合わせ筆者が考え出した、映画「鳩の撃退法」の中で起こりうる事実である。


注意書きって面白いですね。多分みなさん上記読んでいただいたと思うんですが、これを最初に示すことで、何となくこれがこの物語なんだなぁと思うのではなく、あくまでも私の解釈であることがわかると思います。

「鳩の撃退法」原作では、最初にこんな注意書きが書かれています。

この物語は、実在の事件をベースにしているが、登場人物はすべて仮名である。僕自身を例外として。 
津田伸一

そして、映画の最後でも同じようなことが書かれています。

では、何故小説では最初で、映画では最後なのでしょうか?

小説では、最初の注意書きを読み、津田という男が語り手として登場することで、「ああこれは津田が自分を主人公として書いた小説なんだ」と理解することができます。
その後、津田がメタ的に語り出したり、その津田が時系列を組み替え思案する様子が描写されたり、小説を読ませる鳥飼が登場人物の1人だと明かされたりすることで、読者はどこまで本当か分からず、津田に翻弄され終わる、のが流れだと思います。

映画では、普通に津田が登場し、秀吉との会話まで普通に観た後、急に津田が分裂して「ああこれもう小説の中なんだ!」となります。その後も出てくる津田はどっちの津田なんだか分かりません。鳥飼に読ませることで鳥飼の読んでいる小説部分を津田が書いているという話なのかな、と思われますが、現実と小説の中がリンクしたり、段々矛盾したりしてきます。
そしてラスト、秀吉が手を叩いてからの場面、秀吉と倉田が一緒にいる場面は完全に矛盾します。え?!ってなってるところで「タイトル決めた!」からの注意書きですよ。そこで「あ!この映画全体が津田が書いた物語だったんだ!」と気づくことができるわけですね。

つまり、観客の動かし方が完全に違くなってるんですよ。何故かと言うと、媒体が違うから。

ただ小説と映画、という違いもあるんですけど、大事なのが津田が書いた「小説」という媒体と同じかどうか、というところ。

小説では媒体が同じだからこそ、「津田が書いた小説を読む」という体験がそのままできるし、読者が読んでいる本そのものが津田が書いたものだ、ということにすぐ気づきます。それが映画となると、同じことができない。

なので、最初にこの世界の前提を見せておき、徐々に綻んでいき一気にひっくり返す、というかたちを取ったのではないかなぁと思います。まぁ映画としての盛り上がりもありますよね。



こういう作り手側の話というか、構造の話をまだまだしたかったんですが、これだけ説明するのに結構長くなってしまったので、また続きは後日書く、かもしれません…!

ということで、映画「鳩の撃退法」の構造を紐解いて撃退しよう!という試みの「映画『鳩の撃退法』の撃退法」、つづく、かもしれません笑








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