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綺麗になったねと爺さんが婆さんへ

 九月の仮決算から二ヶ月が経つというのに、心身の疲労が全く抜けなかった。
 帰宅の電車ではスマホを見る気力もなく、呆然と外を眺めるばかりである。
 家に帰るとすぐに自分の部屋に飛び込み、電気を消した。
 そして夜明け前に目を覚ますと、同棲中の彼女が作ってくれた晩御飯をレンジで温め直して食べる。
 そんな日をずっと繰り返していた。

 「今度、温泉でも行こうよ」
 憔悴した私の様子を見かねた彼女は色々と提案をしてくれた。
 でも、どれもなんだがひどく億劫で、私は曖昧な返事をして逃げ続けた。
 優しい彼女にも遂に限界が来たのだろう。
 
 「たまにはデートしようよ。私ずっと我慢してるんだよ」
 「…仕事で散々働いて、家でも気遣わんといけんか…」

 言い終えた瞬間にしまったと思った。
 でも、もう既に時遅く、彼女の目はみるみる内に潤んで涙が零れた。

 適当に励ましてみたが、それさえも大切なエネルギーを消費しているような自分が心底厭になった。
 もう駄目なのかもしれない。
 喉元から飛び出そうな言葉をなんとか飲み込んだ。 

 家にも居づらくなったので、部屋着にダウンを羽織って、外に出かけた。
 玄関の扉が閉まる直前まで彼女に何か声をかけようか迷ったが、結局何も言えなかった。

 少しでも賑やかな場所にいたくて、駅前の商店街へと歩き始める。
 西日が眩しくて、思わず目を伏せる。
 そこでようやく仕事以外はもう何ヶ月も部屋から出ていないことを思い出した。

 商店街は買い物時で賑やかであった。
 親子に友人、そして恋人。
 私を除いて、誰もが幸せそうに笑っているような心地がした。
 そんな人達を避けるように歩いた。
 北風は冷たく、スエットの足元から滑り込む。
 少しでも風の当たる面積を減らそうと体を屈めると、いつも以上に猫背になった。
 美しい姿勢のマネキンが立つショーウィンドウには無精髭の陰気な男が映っていた。
 
 何も収穫は無さそうなので、来た道を戻ろうとした時、カランカランとドアが開く音がした。
 内装から美容院であるようで、中からヨボヨボと歩く婆さんが現れた。
 相当の高齢なようで、杖なしでは歩くのもおぼつか無い様子である。
 後ろでは店員が転倒しないよう、懸命に婆さんの背中を支えていた。
 婆さんの顔は皺でしわくちゃであるのに、髪の毛だけが美容院終わりでやけに若々しく、正直に言って浮いていた。
 私はその光景を呆然と眺めていた。

 その時、すいませんと向こうで声がした。
 声の主は婆さんと同じくらいの爺さんであった。
 婆さんの美容院の時間が終わったので、迎えに来たのであろうか。
 声は元気であったが、足腰はやはり弱っており、婆さん達の前まで歩くのに少しの時間を要した。
  
 「いつもすいませんね」
 爺さんはもう一度頭を下げた。
 そして婆さんの顔を見ると大げさに目を見開き、
 「あらまあ、こんなに綺麗になっちゃって!」と声をかけた。
 
 その声があまりにも大きいので何人かの通行人が爺さんの方向を見た。
 婆さんは何も言わずに、ただ恥ずかしそうに下を向いている。
 通りがかりの学生がクスクスと笑っていた。
 しかし爺さんは周りに気づいているのかいないのか、
 「いやあ、綺麗だよ。なあ店員さん」
 とお構いなしである。
 
 「ええ、とても綺麗だと思います」
 店員は静かに微笑みながら答えていた。
 
 店員が職場に戻ると、夕暮れの商店街の一角には二人の老人だけとなった。
 爺さんは婆さんの背中に優しく手を添えると、ゆっくりと歩き始める。
 それからもう一度、「本当に綺麗だよ」と言った。
 婆さんは頭をペコリと幸せそうに下げていた。

 私は二人が見えなくなるまで、ぼーっとそこに立っていた。
 そして無性に家に帰りたくなった。
 だから彼女の大好きなコロッケを少し笑えるくらい買いこむと、
 彼女が一番喜ぶ言葉について懸命に考えてみた。

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