悲しみを傍に

どんなジャンルでも圧倒的な結果を出している人の特長のひとつに、「物事をひとつひとつ改善していく意志と実行力が凄い」というのがある。

言葉尻だけを捕らえると、完璧主義のように思えなくもないのだが、元完璧主義者から言わせてもらうと、両者は実際には全く似ても似つかない、異なるものである。

過去の私が陥っていた完璧主義は、自分から力が失われていくものという前提で話を進めるが、それは動機が「責められたくない」というものであった。「優秀と思われないとしぬ」という強迫観念が根強くあった。

一方、自分がパワーアップしていく改善の鬼たちの動機は「探求心」である。これをこうしたら次はどんな景色が広がるのだろうという好奇心に近いような気がする。
自分を中心に置くか、他人の視点を内包するかで、自分の内側に宿る力の総量があまりにも変わってくる。

以下は自分の覚書だが、生きづらい系が幸せを感じる第一歩は「ありのままの、今のままの自分で良い」「今あるものに感謝する」という、いわば「足るを知る」ことである。このことと、「あくなき探求心」は、一見矛盾しているように思えなくもないが、これも、言葉のロジックに惑わされないことである。

つまり、「今の自分のままで何の問題もない」と芯からわかっているからこそ、「結果にこだわらず、シンプルに挑戦してみたくなる」のである。
その結果、例え世間的に失敗と思われるような現象が起こったとしても、本質的な自分の価値が左右されないことをわかっているからこそ、探求する気が起きるんである。

具象に拘ってしまいそうになるときは、この視点をいつも思い出したい。
仮に、その大学に、会社に、仕事に就けなくても、その人に愛されなくても、今の幸せがあるから大丈夫であるし、そのように考えられる人が望む具象はきっと必然があるやろうから、願い通り叶ったとしたら、そこで体験できることを沢山味わってありがたがって喜んで、望むならそこからまた道を広げていくだけである。だめになっても今の幸せに戻るだけだ。

私は、毎朝このことを思い出しながら一日を始めて、毎晩ここに立ち返りながら眠りにつきたい。
今自分が生きていること自体がボーナスステージだということを、毎日思い出して、味わいながら、やりたいことを一日のうちに少しでも取り入れられれば、感謝は自然にわいてくるものである。依然、物欲も食欲も人並み以上にあるのだが、推しに教わった動きひとつできればその日一日は幸せである。

私が自分には何もないと口にするのは、決して、「そんなことないよ」待ちではなく、何もないと気づいたときに幸せが訪れたからなんである。
何もないと、全てあるが手を繋いでいるのが今の私の正直な体感である。

私には、やりたいことがある。できるようになりたいことがある。
私の中の恐怖は、過去に感じた深い悲しみである。私の今の望みは、その悲しみに、一緒にやりたいことをやってもらうことである。

私は私の悲しみに、力を貸して、一緒にこれからの人生に参加してほしい。悲しみは、癒されることだけを望んでいるのではない。
哀愁のない歌は味気ないものである。悲しみを知らない人は、愛する人の悲しみを想像できない。

私は私の中に眠っている過去の悲しみに、私のやりたいことに、一緒に参加して欲しい、背中を押して、力を貸して、彩を添えて、喜びと手を繋いで、一緒に私を輝かせて欲しい。
あるいは、もうずっと、そうしていてくれたことに、私が気づけばよいだけなのかもしれない。




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