自己省察を巡る省察

「自己省察」――それは毒親育ち生きづらい系が「領域展開」していくにあたっての必須要件であると同時に、メタ認知がメタ認知を呼ぶ自縄自縛の変態プレーへの入り口にもなり得る――諸刃の剣である。

別記事で挙げた私の現在の生活を形作る約12のセグメント(仕事、運動等)のうち、2つがこの「自己省察」であった。無意識にダブルカウントしてしまうくらい、ここ数カ月の私の生活は自己省察が中心であった証である。(単にぼけてるだけとの異論は認める。)

この記事かて、自己省察を自己省察するというメタメタの変態プレーと言っても過言ではないやろう。

前置きが変態になったが、ここでいう自己省察とは、①「自分の本音を見つめ」②「何が出てきてもジャッジせず」③「感情的なものには寄り添う」という、超絶ベーシックなアレである。
この3ステップが無意識に出来ている人間は、もはや生きづらい系ではないと断言できる。

以前の私は、無意識オブ無意識が、①「これが本音(であると支配者/元は親に都合が良いので自分はこう思っていることにしておこう)」的な、どえりゃー忖度の着ぐるみを重ね着していた。
おまけに、②「何が出てきてもジャッジしかせず」、
③「①に背くような本音は全力で封じ込め、麻痺させ、感じないよう」死力を尽くしていた。

ここを全て自力でひっくり返していくのが、どれほど果てしない道のりであるかは、この記事を目にとめてくれた生きづらい系仲間なら想像に難くないことでせう。書いてて思ったけど、そら、ダブルカウントしたくもなるわな。

現在のわたくしは、「それが支配者にとって都合が悪い感情(=逆らえばはりぼての平和が崩壊しそうに思える)だとしても」自分の本音を認め、「予想外の憎悪や嫌悪や弱音や色々」が出てきても出てくるがままにし、「それらの奥には必ず悲しみが存在するという事実に立ち尽くす」ことを徹底し続けてきた結果、「自己省察の折り返し地点」に辿り着いたことをここに表明する。

「折り返し地点」を超えた自己省察とは、あくまでも私の感覚的な定義でしかないが、「退院後」、あるいは「脱出後」の世界をどう生きていくかという問いに等しいのである。
 
過去の私の世界観の中では「この傷が癒えさえすれば」「ここから脱出さえできれば」、あるいは「この職業に就きさえすれば」「この人から愛されていれば」自動的に「幸せ」になるものだと思っていたが、それこそが「囚われた」人間の発想であったのだ。
 
私という生きづらい病院の医師が、私という患者に声をかけるとするならば、「一番まずい時期は乗り越えました。よく頑張りましたね。まだ通院は必要ですが、それを含めて健康な状態にあります。ご自身のキャパの中で、今の自分としてやりたいことをやってほしいと思います。」という声掛けになるやろう。
 
外に出た患者(=私)は、突然与えられた自由に戸惑う。食べたかったものを食べ過ぎて腹を下し、今まで出会ったことのない魅力的な人に焦がれ、自分を大きくみせようとして失敗し、痛む古傷に憤りを覚え混乱し深夜に頭を強打し、翌日には結局起き上がれなくなる。週の半分はそんな感じである。
 
これが、私の手に入れた自由。
 
失敗する自由。無様な自由。不安定な自由。誰からも期待も必要ともされない自由。大義の存在しない自由。
 
私たち人間に、いや、生きとし生ける全てのものに、元来た場所があるとするならば、いつかそこへ還ったとき、私はこの自由の素晴らしさを、こう表現するだろうと思う。

「予想以上だった」

これは、直感だ。
これが、私の人生最後の言葉になるのだ。そのことをありありと感じるいま、もう、自己省察の必要はないのかもしれない。

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