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日本人の本来の教育の在り方 ~英語の必修化は植民地支配の象徴~

こんにちは。

今回は日本の学校教育で英語が必修科目になっている理由が英米の間接植民地であるからだと言う所以を解説した上で、日本人の本来の教育の在り方についても解説していきます。

一、英語教育は西欧化政策の一環
二、日本語(特に方言)を大事にしよう
三、結び

一、英語教育は西欧化政策の一環
千八百六十九年(明治二年)、戊辰戦争で英国のロスチャイルドの援助を受けた薩長軍が仏蘭西のロスチャイルドの支援を受けた旧幕府軍を破り、薩長主導の明治政府が成立したことをきっかけに、日本は英国により間接支配されるようになり、本来の独立国の日本は滅びました。

明治政府は西欧化政策を推進するにあたり、英才教育の一環として英語が中学校で教えられるようになり、一部の小学校でも英語教育が始まりました。千八百八十一年(明治十四年)には、中学校における外国語教育の時間に週十六時間が割り当てられていたようです。その後は、国家主義の台頭などで日本語教育が強化され、小学校での英語の授業が廃止されるなど英語教育は一部後退しますが、それでも積極的な英語教育が続けられてきました。また、「脱亜論」を唱えた福沢諭吉に関しては、西洋かぶれしており、彼が創立した慶應義塾大学の入学試験は英語を重視しています。

ここで、ミカエル氏のブログから引用します。

福沢は「脱亜論」なんかも世に出し、亜細亜から脱して欧米に倣うという脱亜入欧を勧めたりもした完全な欧米マンセーの売国奴です。現代の慶應義塾大学の一般入試(センター形式は除く)においても、文系学部では文系やのに国語が受験科目に無く、英語、歴史(日本史か世界史の選択)、小論文の三科目だけで、英語の配点が他教科より上で偏り、英語重視なのが明らかです。経済学部等は歴史の代わりに数学もありますが、明らかに国語を軽視して科目が少な過ぎて、このことから日本語という国語を無視して英国の言葉である英語を重視する姿勢が分かります。高校生位でまともな小論文を書ける人間はほぼおらず大雑把で、採点者にまともに読まれてへんやろな。福沢諭吉の脱亜論的思想の反映が明らかです。そして、歴史も教科書にも載らない用語集の隅をつつくような難題を出すので高得点を取れる受験生はあまりおらず、実質英語だけを見ているようなものです。こういう大学や大学院に行って誇りや自意識だけが異常に高まり、学歴という無意味なもので人を判断したり、英語という日本におる日本人にとって本来不必要なものが出来る出来ないで人を判断し、英検やTOEIC(特にTOEICなんかは筆記と会話が無いさかい、英語力があるかの証明にはならへんし、実際に欧米諸国では認知度が著しく低くて有効な資格として認められてへん。)が意図的に持て囃され、何も考えへん愚民はええ年した社会人でもTOEICを無意味に重視し、作られた流行はすべて利権絡みに過ぎず、日本語よりも英語を頑張らせて日本語離れさせようとする政府や行政の意図が見え見えです。報道機関もアホみたいにカタカナ英語ばっかり用いて、芸能人らが崩れたけったいな日本語ばっか使いよって、視聴者は思考停止してそれに影響されて真似しよるし、日本人は酷く堕落しています。日本での国家ぐるみの意図的な西洋かぶれさす計画に気付かんし、拒否するどころか喜んでそれに乗っかる日本人の愚民が増え、内資を蔑ろにして外資の乗っ取りを助長し(海外ブランド等に目が無いのがその最たる売国奴の例)、日本を亡国へと加速させる日本人が激増しています。日本人なら日本や日本語、日本文化等をもっと大事にせえや。それをせんと売国奴の言うことやすることに疑問を持たず同調して一緒に売国しとることに気付かん人が多くて非常に哀れです。

現代日本の常識は殆ど捏造されたもの | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

このように、福沢諭吉を始めとする西洋かぶれした知識人は英語を重視してか、学問の学びには英語を切り離さずに必修化していることが分かります。

極めつけはこちらのように、大阪の吉村洋文知事は英語を大阪公立大学の公用語に制定することを検討したくらいです。どこまで厚顔無恥なのでしょうか。いくら一施設であっても、英語を公用語にするのはあってはならないことです。国際化などという戯れ言に惑わされてはなりません。国際化はバベルの塔の時代のように、サタンが人類に共通言語を話させることで意思疎通させて、世界を一つにすることで、神に反逆するために推進されているのです。

旧約聖書 創世記 十一章一節~九節 新共同訳
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

創世記の時代はバベルの塔が建設される前まで、全世界は同じ言語を話していました。しかし、ニムロドを中心に当時の人類は天まで届く巨大な塔を建設することで、神と同等の存在になろうと企みました。神の主権が脅かされることに危機感を覚えた主なる神は、彼らが意思疎通出来ないように計らわれて、バベルの塔は建設が中止となり、この事件をきっかけに人類の言語は地域と民族毎にバラバラに分かれたのです。そして、現在では世界の国際化によって、英語を世界の共通言語に、世界統合の気運が高まりつつあります。そうして、第二の獣の国の米国の権力を利用して、第一の獣であるローマ教皇が全世界を支配して、人類同士での団結を深めることにより、バベルの塔の時のように神に反逆しようとしているのです。心配せずとも、ローマ教皇の天下は長くて三年半しか続かず、キリストの再臨で天地と共に滅ぼされるのです。

さて、近年の世界各国で英語教育が推進されている理由とは、当時の英国は世界の大半を支配していた列強の一角であり、亜細亜や阿弗利加に多数の植民地を形成していました。そのため、亜細亜や阿弗利加の国々に英語教育が強要され、亜細亜と阿弗利加の固有の国語教育は禁止又は縮小化していきました。その後遺症は未だに残っており、第二次世界大戦後に英国から独立した亜細亜と阿弗利加の国々は、現在も英語を公用語としている国も多く、また英連邦に加盟している国も少なくないです。英国の衰退で戦後に第二の獣の国である米国が世界の盟主となった今でも世界各国での英語教育の推進は止まるどころか、寧ろ強化されているように思います。米国の植民地であったフィリピンすら、独立後も親米家が多く、政府は英語を公用語としており、戦後に日本で言う日米安全保障条約に当たる米比相互防衛条約(有効期間は無期限)を締結して、米軍基地の設置を認めています。その意味で考えると、フィリピンも日本と同様に米国の植民地から脱却できていないと言えます。ロドリゴ・ドゥテルテ前大統領は就任直後から麻薬の取り締まり強化と治安対策のために、汚職政治家や公務員に厳しい態度で臨んで、時には超法的殺人もいとわないくらいでした。彼の汚職撲滅と治安対策は過激なところもあったものの、日本の自民党政権が制定した抜けが多い実質的な裏金維持法とも言える政治資金規正法改悪で国会議員の裏金犯罪を見逃すよりはマシな部分もあったとみられます。因みに彼はあちら側ですが、それでも彼のような政治家が日本にいれば、今頃は裏金汚職議員は撲滅されていた可能性も否めないです。

二、日本語(特に方言)を大事にしよう
日本における英語教育は明治維新の西欧化政策の一環で推進されましたが、そんな英語教育でも一時的に中断された時期もありました。それは、日露戦争後の米国で対日脅威論が拡散されて、米国人の反日感情が高まり、米国での日本人移民が増えたことによる米国人の雇用機会が奪われたことに対する反感から排日運動が市民の間で広がりました。千九百二十四年にはカルビン・クーリッジ政権下で排日移民法が成立して、日本を含めた亜細亜諸国からの移民の受け入れを停止しました。この年を境に排日の動きは広がり、それに伴って日本でも対米感情が悪化して、「敵性言語」として英語教育が行われなくなりました。陸軍中野学校などのごく一部では、諜報活動のため教育を継続しましたが、一般的な教育課程からは省かれ実質的に英語教育が断絶しました。特に戦時中は、すでに浸透していた外来語に対しても、日本語を使うようになりました。日本の敗戦後、GHQによる占領統治下で、GHQの一部であるCIEの指導の下で千九百四十六年から英語教育の再開が議論されるようになり、その結果、千九百五十一年から中学校で選択科目として英語教育が再開しました。ただ、千九百五十一年以降は五十年間に渡り、選択科目での教育が継続されていましたが、二千二年に中学校で必修化となりました。小学校でも英語の授業実施に関する議論が千九百八十六年に始まり、その結果、千九百九十二年に大阪にある研究開発学校で英語教育を試験的に実施することになり、各都道府県に一つずつ研究開発学校が指定され、小学校での英語教育が広がりました。研究開発学校での英語教育が一定の成果を得たため、二千二年になって全国の小学校で本格的に英語教育が取り入れられるようになります。教育の水準を保つことを目的とした、小学校学習指導要領に告示されたのは千九百九十八年であり、そのなかで「総合的な学習」として外国語を入れることが決定したことにより、小学三年生以上の授業において英語学習に時間が確保できるようになったため、瞬く間に英語教育が広まり、二千十一年には小学校学習指導要領が再度改訂され、小学五・六年生で「外国語活動」として必修化され、年間三十五単位時間という授業時数が確保されるようになりました。更に、二千二十年には三年生からに引き下げ、五・六年生で教科化されるようになり、小学三・四年生の時点で年間三十五単位時間の授業が割り当てられ、五・六年生では成績にも反映されるようになりました。


https://www.bitchute.com/video/hGuIz7OjDMDW


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日本の英語教育の歴史を見る限りでは、戦後から米国が植民地支配に加わり、親米の自民党の長期政権が米国の要望に応じてか、中学校から小学校にまで英語教育の低年齢化が進んでいるように思います。日本人ならば、英語より国語である日本語を大事にするべきです。しかも、大学入試で英語の成績を重視する姿勢は変わって居ないことからも、このままだと日本は日本で無くなると懸念されます。本来ならば、英語を含めた外国語は洋書の翻訳や貿易関係の仕事など外国語が必要な仕事に従事する人が選択科目で勉強すれば良いだけの話です。しかし、それでも外国人(特に欧米の白人)は日本語を碌に勉強せずに来日して、英語やその他外国語での対応を無理矢理と日本人に迫り、外国語が堪能で無ければ文句を言う人もいるくらいです。

ここで、ミカエル氏のブログから引用します。

外国人たちはその努力を怠り、日本でも英語やその他の言語で日本人に対応を迫り、日本人は英語ができないと文句を言う始末です。このような外国人たちは傲慢以外の何物でもありません。それでも日本人は自分たちが悪いと勝手に思い込み、傲慢な外国人に合わせようとします。特に欧米人に対して卑屈な精神を植え付けられ、戦後GHQの自虐史観教育等によって洗脳されているので、英語を必死に勉強して何もかも欧米人に合わせるように仕向けられているのです。服装も同様で、欧米人による文化の侵略です。戦前までは和服(着物)を着る人が一定数いましたが、戦後に激減して今では和服を普段着で着ている人は絶滅危惧種になりました。軍服由来の背広を礼服や正装だと思い込み、普段着も洋服を愛用し、英語ができないと頭が悪いと言う欧米かぶれの愚かな日本人もいる始末です。TOEICスコア満点や英検1級だとか自慢している日本人が一部いますが、無意味な努力です。また、それだけ自ら進んで欧米の奴隷になっていると自らさらけ出していることに気付かない哀れな人です。そもそも、TOEICは日本と南朝鮮で人気なだけで、欧米では認知されていませんので、まったく役に立たないし、自慢にもなりません。欧米では「TOEIC? 何それ。知らん。」と言われますよ。TOEICは聴解(Listening)と読解(Reading)しかなく、会話(Speaking)と筆記(Writing)の試験が無いので正確な英語力の指標にならないことを理解すべきです。英語の資格なんて別に必須でもありませんが、もし英語力の証明が海外留学や海外就職で必要というなら、TOEICや英検なんかやめてIELTSやCambridge Examination等の取得を目指す方がまだマシです。

正月と日本人の現実 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

このように、日本人の国際的地位は低く、外国人に舐められており、きちんと日本語や日本文化を学んでから来日する外国人は皆無だと思います。にも関わらず、日本人は一生懸命に英語を勉強して、英語を話せるように努力する人が多いと感じます。しかも同じ英語の試験でも、英語能力検定やTOEICなど世界的に認知度の低い資格試験ばかりに力を注いでいる人ばかりです。英語能力検定は日本国内でしか通用せず、TOEICは日本と南朝鮮でしか認知されていませんから、勉強しても無意味だと分かります。海外移住や留学・就職などでどうしても使いたいならば、ケンブリッジ英検やIELTSの資格を取るために勉強する方が遙かに有意義です。

さて、本題に移ります。日本語は明治政府の富国強兵策の一環で軍隊内部の意思疎通を円滑にするために関東弁を元に共通語を作りました。そもそも、明治維新まで日本は令制国であり、日本人という概念は無かったのです。現在の都道府県制度は明治政府が中央集権化のために廃藩置県を実施した結果、出来たものです。それまで、日本人は地域間の行き来を余りして居らず、薩摩国や陸奥国と言った令制国を一つの国と思っており、彼ら自身は「薩摩人」や「陸奥人」と言っており、地域のために貢献する人が多かったのです。また、地域毎に言葉が異なっており、所謂「方言」と呼ばれるものこそが本来の日本語と言えます。日本の国語教育は共通語しか教えておらず、こちらのように、沖縄の事例ですが、沖縄固有の方言を話しただけで長方形の板にひもや縄を通して首からぶら下げさせる「方言札」の習慣がありました。そもそも、沖縄は明治以前は独立国であり、現在で言う日本語では無く琉球語が公用語でした。十五世紀頃に尚氏が統一琉球王国を建国して、支那や東南亜細亜との交易で栄えては居ましたが、十七世紀に薩摩藩の侵攻で属国となり、やがて十九世紀の明治政府の琉球処分で正式に日本領に組み込まれることになりました。そして明治政府は言葉や風習などの「日本化」を進め、教育現場では「標準語励行」の標語の下、沖縄の方言を使った生徒への罰として方言札が使われるようになりました。大東亜戦争の沖縄戦の時も、こちらの通りに日本軍は沖縄の方言を話す住民を間諜と見なし虐殺していた歴史もあったのです。おまけに日本軍は人員不足を理由に、沖縄県民から鉄血勤皇隊やひめゆり部隊として年頃の男女を無理矢理に徴兵したこともありました。戦後は一時的に米軍の直接統治下に置かれ、米兵の犯罪行為に対する処分の不十分さに対する不満から日本本土への復帰の気運が高まる中で、沖縄の教育を担う沖縄教職員会が目指したのが、子供たちを「日本国民」として育てることであり、教職員会は「日の丸」を学校や家庭で掲げる運動を展開し、子供たちに共通語の使用を促して、そのための一環で一部地域で方言札を復活させました。更には、「わざとたたいたり蹴ったりして方言を言わせ、札を回す」と言った不当な人権侵害が横行したくらいです。

沖縄を含めた日本の起源は何度も言いますが、古代イスラエルです。こちらの記事にある通り、日本各地の方言はヘブライ語由来の言葉が多く、沖縄の人々は特にイスラエル民族の遺伝子系統であるパブログループE系統の遺伝子を受け継いでいる人が多いのです。そのヘブライ語由来の言葉が多い沖縄の方言を軽んじて、無理矢理に共通語を話させる学校の国語教育は間違っているのです。日本人ならば日本語、特に地方毎に特色を持つ方言を大事にしつつ、本来ならば不要な外国語教育の義務化を廃止に追い込むべきです。本当の保守とは、古くからある伝統と文化を大事に守り、それらを受け継いでいく使命を持っているはずです。にも関わらず、昨今の自称保守は外国語教育の義務化を止めるどころか、寧ろ推進しています。日本人の国語である日本語を軽んじて、外国語を重視するようではいくら保守を名乗っても説得力に欠けています。また、公共交通機関で見られる外国語表記と外国語の放送を直ちに止めるべきです。日本人が海外に行っても、諸外国は一部の国の宿泊施設や観光案内人を除いて日本語対応してくれません。それと同じように、外国人への奉仕は必要以上にするべきではありません。

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三、結び

如何でしたか。日本の学校教育の弊害について、気づかれた方は多いのかと思います。個人的に学校なんて行かなくとも、最低限の読み書きと計算さえ出来れば、社会に出たら十分役立つと思います。現在の学校教育など明治政府の富国強兵策の名残であり、本来ならば不要な制度です。江戸時代の寺子屋教育が現代の学校教育よりも質が高いことが、江戸時代までの日本の教育がかなり充実していたことの裏付けです。江戸時代の庶民は身分を問わず、寺子屋で読み書きや算盤、その他の学問を積極的に学んでいました。当時の欧米諸国では年端もいかない子供が働きに出される事が多く、識字率は低かったのです。一方で、江戸時代の日本の識字率は当時の世界では最高水準であり、西洋の学制よりも質の高い教育を受けられていたのが分かります。そのため、江戸時代までの日本人は道徳的に品性が高かったのです。明治維新の西欧化政策で制定された学制によって、日本人は詰め込み教育をさせられて道徳よりも学歴を求める人が増えるようになり、身も心も堕落していきました。現代では勉強について行けない者ほど、いじめや差別に遭い、不登校になって、最悪の場合は自殺までするほどになりました。その意味で考えると、明治維新をきっかけに日本の教育は詰んだと言えます。競争率の激しい明治以来の学制由来の学校での詰め込み教育に疲れた学生の方が、当ブログをご覧になっているならば今一度考え直して下さい。

新約聖書 マタイによる福音書 十一章二十八節〜三十節
わたしのもとに来なさい
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

聖句の通り、世俗社会に疲れた者を主イエスは見捨てることはありません。学校の勉強について行けない自分は駄目だと気を落とす学生の方、自分も学生の頃は勉強が出来ないことがあり、自暴自棄になったり、情緒不安定になったことがあります。だからこそ、あなた方の気持ちも分からないことは無いです。このブログを見ている読者の方、宜しければ学生の方々にも周知して下さい。そして、聖書と真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログを読んで頂けると幸甚です。

皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。手遅れになる前に聖書の学びに一生懸命励んで、真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事を最初から最新記事まで読み進めることを推奨します。

拙者はミカエルさんの管理する「神のイスラエル教会」参加に向けて活動中の未熟者ですが、この記事を読まれている読者の皆さんも宜しければ共にキリスト道を歩んでいこうではありませんか。

最後までご覧頂き有難うございました。

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