⻄村賢太から見る、劣等を超える『文学』からの学び

柴野陸

『深更、一時に鶯谷の「信濃路」にゆく 生ビール一杯、ウーロンハイ七杯に、オムレツ、肉野菜炒め、 ワンタンなぞを飲み食いし、最後に生卵入りのカレーそばを すする。
タクシーにて帰宅 。』
著 ⻄村賢太「一私小説家独語」より抜粋
何とも恰幅の良い文体である。 あらゆるテクノロジーに覆われ、日々利便となる社会の中で 生きる、我々の乏しい想像力でも腹の虫が騒ぎそうだ。 僕が⻄村賢太を知った(意識した)のはつい先日の事だ。 いつもの様に書店をウロウロしていると、新刊コーナーにて 彼の追悼作品たるものがずらりと並べてあった。 追悼。当時、詳しい年齢は知らなかったが、見積もっても自 分の親世代(実際、父と同じ学年だった)だと思うと些かの 驚愕はあった。
美女と野獣。 ⻄村賢太といえば、「苦役列車」で第百四十四回芥川賞受賞 された私小説家である。朧ながらも、その時僕は文学の「ぶ」 の字も知らぬ十四歳の小僧だったが、ワイドショーなどで取 り上げられたその文言を今でも覚えている。「中卒、芥川賞 受賞 。」 何とも皮肉しか残らない題である。 僕も高校時代は、映画(特にアメリカンニューシネマと呼ば れる類)をたらふく鑑賞し、いっぱしの「映画評論ノート」 を自作していた。その甲斐あって、卒業後は映画の専門学校

に通い、映画と文学の両立の日々に明け暮れた。 しかし、彼の作品を頂戴した事は無く、というのも「私小説」 というジャンルに些かシニカルな目を当てていた。
「私小説 」。 何とも惨めったらしいジャンルだと考えていた からだ。 しかしこれは、単なる僕の見聞不足の何物でもなく、あくま で「フィクション」だというのは、彼自身多くのメディアを 通して公言している。 作品中に登場する北町貫太に、己を投影させているのは間違 いないが、随所に脚色を彩っている事実がある。 彼の小説「苦役列車」を完読して第一に感じたのは、 ⻄村賢太という人間性であり、すなわちそれは 「ドの付いた見栄っ張り」だなと言う印象だった。 それは彼が常々発言している「学歴へのコンプレックス」の 現れだろうか。物語冒頭から、周りくどく晦渋な言い回しが やたらと多い。 苦役列車に限らず、多くの作品がそうであり、凡そ文体だけ 見れば、いかにもといった経歴を連想させるのだ。 またそれが、彼の形容(経歴を含めて)と相まって見事なコ ントラストになっており、根強いファンがいる要因であるの は想像にた易い。 親族と離れて暮らしてから約三十年あまり、経歴社会に懊悩 した彼の陰鬱でドロドロとした⻘春の鬱屈が、時を経て 野獣の芥川賞受賞という名声溢れるキャラクターを形成した のは結果であり事実だ。
そんな魅力溢れる私小説家の彼だが、私小説作品では無く、 随筆集も何冊か出版されており、これがまたえも言われぬ程 に一興なのだ。
ここでは、記事冒頭に記した「一私小説家の独語」にて抜粋 し、使用したいと思う。

まず初めに、随筆という事もありながらも、文体の晦渋さは、 作品と比べてより一層増していた事に驚愕した。 そして何より、その内容が文体と比べて愚鈍である事が、私 が思う彼の随筆の素晴らしさなのではないかと心得たのであ る。 此書にある『女体を知る』という章では、自身が持つ性への 欲求が書かれており、その赤裸々な羞恥を公表してある。 同時に、彼の実父が性犯罪者であるという遺伝的恐れも記し ている。「犯罪=刑務所」という苛烈な環境に身を置くこと はまず避けたい、自身はあくまで小心者であるという意味付 けで、かの様な事を書かれた。
『甚だ卑劣極まるカテゴリーの中の臆病者である』
僕は上記の一文を、知的且つ高貴な印象という意味で高く評 価したい。読点が無く頭にこびり付くフレーズだ。というの も、全体の音のバランスと熟語のチョイスが見事だと感じた。 えも言えぬスピード感と意味深い文体が見事に合わさり、一 芸術の中に読者を取り込ませている。即ちこの一文には正真 正銘、文学的響きがある。 一方、それでも自身は元来、人一倍好色であるという告白を しており、その逸話として
『そして元来、マスをかきたいとの理由で学校をちょくちょ く休んでいたような質である』
と書かれている。これには僕も微笑してしまい、更には芥川 作家へ親近感さえ湧いたのだ。 それに立て続き、「繰り返す帰宅」という章では、独り立ち した筈の彼が、帰省(同じ都内だが)をするというので、そ の理由としては、愚鈍な性格からくる金銭的な貧しさだとい う。しかし、ここで読者である我々は、一体何故彼は十五歳

という若年で一人暮らしなどという無謀な選択(この時から、 自身の愚鈍さは理解していたという)をしたのだろうか、 という様な疑問にようやくぶち当たるのだ。 此書冒頭では、己の劣等的な視点を強く書いているだけで、 肝心な、単身で住むという理由が一切記されていない。 断っておくと、終始、此書には、かの明確な理由は記されて いないのだ。が、この章で起こる彼と彼の母とのやり取りで、 凡その予想は出来るという事である。 帰省した彼は、どこか悪びれた様子や気まずい様子は無く、 (僕の偏見かも知れないが、不純な理由で帰省するのはどこ か引目が感じるという心境にはならないだろうか)ごく自然 に謳歌しているのだ。
『まずチャイムを鳴らしてその扉が開くのを待つのだが、母 の方は、そこに立っているのが私だと知った途端、面上俄か に暗色を拡がさせるのであった』
何とも意味ありげな文だ。ここまで来ると、一種のエンタテ イメントを見ている気分になる。暫く読み進めると
『うっかり言い忘れていたが、私は前年の三年時より、いわ ゆる家庭内暴力を振るっていた 。』
何とも起伏のある随筆だろうか。 僕はこれには思わず苦笑した。理由としては、ヒステリ気味 な母からの暴力や暴言に幼い頃から耐えており、ある時それ が爆発したというのだ。 以下の告白を、此書後半部分で顕にしたというのは、一種の テクニックであると見れる反面、本心から来る羞恥なのかも しれない。『うっかり言い忘れていた』という、それまでに は無い簡易な表現が、「思わず出てしまった」という演出に しているのか否かは、定かでない。

この様な文体の起伏が織りなす、終始不変な「自身の愚鈍観」 を貫く内容が、彼が持つ最大の魅力なのではないだろうか。 「それでもバイタリティがあるんですよ」 生前、彼が対談の際に語っていた。意外だったのは、生涯、 著筆は肉筆で行われいたという。
利便性がますます多様化されていく昨今。あらゆる物が電子 化されていく中で、僕は、些か感情が記号に追い付いていな い節を感じる。
不安、焦燥、怒り、恐怖、劣等、 負の感情を手軽に消化出来る事は文明の進化なのかも知れな い。しかしその分、我々が劣化していくのもまた事実だろう。 これらの感情は間違いなく人間にとってのエネルギーである と、彼の著を通して感じた。事実、彼は受賞を通して彼自身 が羨んだ「上流階級」に足を踏み入れることが出来た。 金銭面だけではなく、豊さを手に入れる為にも、こう言った 感情を簡単に手放すには惜しいものがあると、彼の性格と文 体、文学観から強く学べる。
⻄村賢太という人物から、文学という一種の学びは、内容や 熟語、文体表現だけでなく、自分自身を幸福へと導く「エネ ルギーの爆発方法」なのかもしれない。

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