スマホが奪う五感力~視覚情報だけがすべてではないと実感
以前、視覚障がい者の方と話をする機会がありました。
生活での苦労や点字の本が以前より増えてきていることなどの内容を聞きました。点字で書かれた教科書は、通常の3倍の厚みになることもその時初めて知りました。
漢字がすべてひらがなになったり、図などの「説明」が加わったりするからだそうで、なるほどと思いました。
お話をする中で、逆にすごいなと感じたこともありました。
その一つが、視覚以外の感覚の鋭さでした。
部屋に入ってこられた時も、杖はありつつも、「見えている」かのようなスムーズな足取でした。
また、話をするときも、ちゃんと相手の方に顔を向ける等、通常のコミュニケーションと変わらない姿を見せていました。
そのことを話題にすると、
・音によって、どこに何かがある、誰がいるということを感じています。
「遠くで声がする」と言う表現があるように、聞こえてくる音の大きさで、近くにあるいは遠くに誰がいるか、何があるかを何となくつかめます。
・また、触覚?で体温を感じて、存在を把握したり、風によってものがあるかどうか、窓があるかどうかなどを感覚的に理解しています。
・場所によっては、臭いで、動物や植物の存在、トイレの場所もわかります(笑)
等の返事が返ってきました。
そういえば、ブラインドサッカー(アイマスクをつけて、ボールの音とコミュニケーションで行う5人制サッカー)がありますが、普通のサッカー(フットサル)の試合を見ているかのようで、驚きます。もちろん、練習のなせる業だとは思いますが、別の感覚を研ぎ澄ますことで、あれだけのことができるんだと、こちらが励まされます。
翻って考えると、私自身は、
視覚や便利な機器に頼り切って、だんだんと五感をうまく使えなくなっているのではないか?
感じることが苦手になっていないかと考えさせられました。
知り合いの先生の話では、最近、学校で一人一台タブレットが実現して、子供達自身が今の自分の気持ちを「晴・曇・雨・雷」などのマークで示すアプリ?記録があるそうです。
記録として蓄積されるので、例えば、ずっと雨や雷マークであることを確認すれば、早く心のケア、サポートに動けます。
ただ、そんなアプリがあっても、「朝の健康観察」は一人ずつ、「●●さん」と名前をよんで、ちゃんと声をかけて行うそうです。
たとえ、子供達が「元気です!」と返事を返してきたとしても、声の調子(いつもより声が小さいな、何となく暗いな)、表情などから、その子の様子、異変を察知するそうです。
考えてみれば、いたるところで同じようなことをしている気がします。
家に帰って来た子供の「ただいま」の声から、様子がおかしいことを感じて、「学校で何かあったのか?」と問いかけたり、逆に、いつも以上に「明るい声だから」、何か「楽しいことがあったのか」逆に「何かを隠そうとしている?」と気にかけたり。
職場でも、その人の顔色を見て、「今日は、ここまででいいから、早く帰って、休んだらどう」「後はやっておくから」とやりとりがあったり。
ボタン一つで、私がやらなくても周りが勝手に動いてくれるものが増えました。
そして、スマホで、いろんな確認をするようになりました。
しかし、
スマホもある意味「視覚情報」優位です。
お店や料理の情報は得られても、味やにおいは分かりません。
音楽は聴けても、ライブで聞くのとは違います。
メールやラインで、顔文字や明るい表現を読んでも、本当の感情は分かりません。むしろ、表現によっては誤解すらされます。
報告書の文字だけでは分からない事、見えてこない課題があります。
現場に行き、そこの「空気」を感じて、気付くこと、理解できることが多かったりもします。
スマホのあの小さな画面が「世界のすべて」ではありません。
バランスをとるためにも、五感を使って思い切り体験する事、逆に目をつぶってぼーっとする時間を増やしていきたいなあと思う今日この頃です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます
皆様の心に残のこる一言・学びがあれば幸いです