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絶対幸福と相対幸福

引き寄せない法則の4
「幸せの感じ方」

前回、「夏休みの宿題理論」なるものを紹介致しました。


私たちの意識の奥底には、常に「不安」のようなものがあり、それは「夏休みの宿題」みたいなものではないかな、という話です。
人生という長い長い夏休みにも、宿題のようなものがありそうな、無さそうな。

人は何のために生まれて来るのか。
人生とは何か。

無尽の問いというやつです。

それはそれで、何かしらのモチベーションの源ではあるので、時に必要なものではあります。

一方、私たちの内面において、この「不安」という感覚と、常に表裏一体で寄り添うのが「幸福(しあわせ)」。
この「幸福」も「不安」同様、人生という長い夏休みの宿題かも知れません。

幸せとは何か。
私は幸せなのか。

これも無尽の問いという訳です。

私たちが日々悩んだり、苦しんだり、色々と学んだり。その理由、目的はやはり「幸福」です。それを突き詰めたのが「哲学」であるとも言えます。
思えば古代のギリシャ人は偉大で、現代の私たちが悩み至る領域の多くは、2000年以上もの昔、既にモミモミして下さっている。

自身が幸せでありたい、或いは自身が幸せであるかどうかを「確認したい」という、古くて新しい尽きぬ欲求。
衝動としての強弱はあるにせよ、必ず、人は必ず持っているものです。

もしも、憲法その他の諸法によって、あるいは道徳と言われる概念によって、行動規範なり、権利義務などを定め無ければ、私たちが「幸福追求特化型マシーン」なのは間違いありません。

如何せん、この幸福というものは量りにくいものです。明確に定型化、定量化することも難しい。

考えてもみて下さい。凡その人にとって大事なのは「幸福」であることなのに、例えば学校の教科に「幸福の時間」は無いのです。

金八先生のように、「いいか諸君。人間の幸せというものは・・・」と熱く語って下さる教師も、少なからずおられるだろうとは思います。
でも、必修科目とはならない。

「そりゃそうだろう」そう言われるかも知れません。
まあ、当たり前のことは言ってます。でも不思議です。
学校、教育の目的は詰まるところ、全ての子供達が幸せな生涯を送ることです。

様々な教科や活動を通し、幸せに近づく道程、方法的なものは提示してくれます。
でも、ある種の解答、目指すところを示すことは出来ない。
「皆、それぞれの幸福について考えて下さい」大概はこんな感じです。

何故なのでしょう。


幸福とは「感じる」もの

これはあくまでも私なりの「解答」です。
ここまで色々と理屈を捏ねておきながら、そうです、「幸福」とは理屈で定義するものではないとの解です。
それぞれが感じることでしか、幸せというものは理解できない。それ故に定型化、定量化することが難しいし、教えることも難しい訳です。

ならば反対に、私たちの「夏休みの宿題」は一気に簡単さを帯びてきます。

「幸福とは何か」
「私は幸せなのか」

この問いかけを一切捨てて、日々丹念に幸せを感じ続け、拾い続ければ良い。

あなたが、私が、「幸せだなー」と実感をもって認識すること。それが全てであり、その機会が増えるほど、「宿題」は消化されます。

と結論付けたいところなのですが、本題はここから。

私個人もそうでしたが、どうにも私たち人間は「幸せを感じにくい」生き物になってしまっていないか、ということについてお話したいと思います。


幸福の「感じ方」を仕分ける

ここで、本稿のテーマである「絶対幸福」と「相対幸福」という概念が登場します。
大切なのは、これが「幸福とは何か」の振り分けでは無く、あなたが、私が、どのように幸せを「感じているか」の振り分けだということです。

ざくっと定義します。

絶対幸福

これは、例えば人類普遍の幸福という意味での「絶対」ではありません。
あなたが貴方にとって、私がわたしにとって、真に「掛け替えの無さ」を感じられるという意味での「絶対」です

相対幸福

これは文字通り、何かとの比較、相対的な位置関係などで感じられる幸福という意味です。
私たちが日々感じる幸福の大半は、この「相対幸福」が占めています。

理由は簡単です。前段で長々と「幸福は定型化、定量化出来ない」旨をお話ししました。
しかし、私たち人間は意味を求める生き物です。把握したいし、確認したい。そういう存在です。
だから、実に長い時間をかけて、相対的な位置関係によってそれを量る、確認するという習慣を強化して来ました。
成績をつけ、順位をつけ、選抜し、相場を設け、価値、値付けをする。あらゆるものを「相対」で見ています。

そう、分かり易いのです。比較して位置を把握するという行為が。

相対幸福の代表格はやはりお金。
収入や資産は数字で表せるものですし、比較し易い。
そして、私たちの「思考」は比較の専門家でもあります。まさにこの「相対性」の世界で力を発揮するよう、私たち自身が習慣付けています。

注意が必要なのはそこです。
相対性の中で感じる幸せは、延々として相対性の中にしか存在出来ません

つまり、比較対象が変われば価値は変わり、比較対象を失えば「意味」そのものを失います。だから、私たちは延々と比較対象の渦中に身を投じてしまう事になります。

現代社会の「生きにくさ」の、最大の要因はここにあると、私は思うのです。

「引き寄せ」における最重要課題も正にこれです。

ならばどうしたら良いのか。
申し訳ございませんが、それはまた別稿とさせて下さい。

まずは、感覚を掴んで頂けたらそれで充分。ひとつ、分かり易い例え話で本稿を締めます。


四つ葉のクローバー

誰もがご存じの「四つ葉のクローバー」。


誰に教わるともなく、幼少期の私も「四つ葉」探しはやっていました。
一説によると、その起源はケルト文化に及びますし、古い古い伝承です。幸せを象徴するものの代表格です。
そしてそれ程に、私たち人間は「幸福」を探し求める歴史を持っているとの証左でもあります。

であるならば、「幸福」とは左様に探し求めるもの。確率的に稀少なものを手に入れることであった、とも解釈できます。

実際に調べる人がいるのだから、世界はオモシロいです。
5,000分の1、あるいは10,000万分の1の確率で四つ葉は存在するようです。
それ故に見つけた者は幸運という事になります。

ならば、少なく見積もっても5,000分の1を発見した者は幸せで、他の4,999に甘んじている者は「幸せでは無い」のでしょうか。


そう、これが「相対幸福」の正体です。


このことには、実に多様な示唆が含まれています。
言ってみれば、私たち人間の大半にとって、幸福というものは「稀少なもの」、「確率が低いもの」と刷り込まれてしまっている。

ここにもやはり「気付き」が必要なのです。

あなたや私にとっての「幸福」は、そんなにも稀少なものなのでしょうか。

そこに気付くことで、私たちにいちばん必要な「絶対幸福」が見えて来る。

そう思うのです。

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