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音楽と文学

気が付いたら、前回の投稿から随分と空いてしまいました。

私がテーマとして掲げている「引き寄せない法則」について、様々な角度から検証を重ねていた・・・
などと言えたら格好良いのですが、実のところ、この間に没頭していたのは「楽曲制作」でして、それがなかなか思うに任せぬ進行状況だった訳であります。

何が思うに任せぬか、と申しますと「音質」あるいは「音像」が、どうにも自分の思い描いているものに近くならないという課題です。

シンプルに、作曲というものを「楽曲のアイデアを生み出す」という意味に限定しますと、そのクオリティはともかく、楽譜的な意味合いでの曲作りは比較的簡単だったりします。

誰しも、例えば散歩中だったり、お風呂に浸かっている時なんかにふと、オリジナルの歌を口ずさむことがあります。
言ってみればそれだって「作曲」な訳ですから。

それを例えば「配信モノ」として、他所様に見劣り(聴き劣り?)しない程度の作品にまで仕立てるには、やはり様々な工程が必要とされます。

その工程が如何なるものか、となりますと、これは「音楽的なスキル」というよりは「音楽を支える技術的なスキル」の比重がかなり大きい。

もちろん、これらは表裏一体、密接不可分な関係。少し分解してみましょう。

  1. 聴覚、感性

  2. 音楽理論

  3. 演奏技術

  4. 楽器取扱い知識

  5. 録音、周辺機器取扱い知識

  6. 音響(PA)知識

  7. 編集(ミックス)技術

  8. 編集(マスタリング)技術

あくまで私なりに、楽曲制作の構成要素を分類するとこうなります。

例えばです。
さほど音楽に造詣はなくとも、「あの人上手いよね」といった直感的感想を抱くことはあるはず。
この、「上手い」という一言に凝縮された感覚の内側に、具体的にはどういった要素が含まれているかという、言わば「成分分析」がこの話題の本旨になる訳ですが、「上手さ」とは単純に演奏技術だけの問題ではない、と言うことです。

せっかくなのである有名ギタリスト、実在したアーティストで例えてみます。

エドワード・ヴァン・ヘイレン

惜しくも2020年に逝去された、おそらくロックに詳しくない方でも、名前くらいは知っているであろうスーパーギタリストです。

彼を一躍時の人としたのは「ライトハンド奏法」等を含む、正確無比かつ高速なギタープレイ、つまり「演奏技術」の凄さ、というのが一面においての真実です。

でも、もう一つ大切な要因がありました。
それは彼が奏でるギターの「音色」。

それまでも、アンプをオーバードライブさせた、歪み系のラウドなサウンドは存在していたのですが、彼の生み出す歪み音は飛び抜けて「美しい」のです。

キメ細やかで暖かく、心地良さすら感じるそのギター音は確か「ブラウン・トーン」と呼ばれていました。
詳しく評論するほどの知識はございませんが、80年代ロックの象徴であるに留まらず、後には様々なジャンルの音楽にも用いられる、ひとつの「リファレンス」となったギターサウンドであった、そんな印象があります。

凄いのは、当時唯一無二であったそのギターサウンドを、彼自身がギターやアンプを改造して創り出したこと(昔読んだギターマガジンに特集されてたのを憶えている)です。

つまり「音楽を支える技術」、エンジニアリングの概念がそこにはあった訳です。


かように、ギターひとつとっても、かなり多くの「機械技術的要素」を内包しているのですから、様々な楽器を織り交ぜて楽曲ひとつを作り込むことは、同時に多種多様な「機械技術的要素」を学び、把握することでもあります。 

演奏、録音、ミックス、マスタリングと段階を踏むに連れ、それぞれ微妙に異なったエンジニアリング的概念が付随し、専門的な知識が求められます。
楽曲や演奏の良し悪しだけではなく、機材を適切に活かしつつ、その使い方に独創性を与え、新しい表現や楽しみ方を提示する。

この辺の話になりますと、かのTHE BEATLESが、特にその後期においては単なる演奏集団ではないよ的な件、色々と知ったかぶりたい気持ちまでもが疼いて参ります。

さて何が申したいか。
それは私が今改めて「音学」してるということです。 

私はこれまで、いわゆる感性、感覚、ノリのようなものが音楽の要諦だと思っていました。そして、それを体現する演奏技術こそが重要であると。
言ってみれば「才能」という単語に一纏めされがちな要素です。

でも、それ以外の要素というものが、実に多岐に渡って存在する。
このことを改めて実感し、「学んで」います。

それ故、「音楽」ではなく「音学」となります。


さてさて、一方でこちらのnote投稿。
こちらはいわゆる「文学」ではなく「文楽」として向き合っている感があります。
「ぶんらく」と読んでしまうと伝統芸能になりますが、「ぶんがく」です、はい。

音学と音楽
文学と文楽

「学と楽」どちらが相応しいとの論ではなく、どちらの要素も併存してるという感想です。
この言葉遊びは、皆さんが通る義務教育時代の教科分け(つまり時間割)に端を発する訳ですが、正しくは、

音楽を学ぶ、国語(文学)を学ぶ

なのだろうと思います。


改めて、私自身が重ねている投稿は当然ながら「文学」ではありません。
ただ、例えば日本文学の源流とも言える万葉集や源氏物語、これらが成立当時においても「文学」であったかは、まあ違うかなと思います。

極論、このnote上の投稿全てをまとめると現代の「万葉集」ではある訳で、千年後には私の投稿も「詠み人知らず」な作品として、何かしらの媒体で取り上げられたなら、それは「文学」であろうなとほくそ笑むのであります。


さてここからは、全くもって個人的推察なのですが、原始人類が表現として最初に身に付けたのは、言語ではなく音楽だったのではないかと思うのです。

もちろん、現代の音楽とは異なる原始的な「抑揚」の組み合わせなのですが、今の私たちが用いる言葉、それらも概ね「抑揚」を持つ(つまり音階を有する)訳ですから、何となく根本は同じと思えてしまいます。

その上でです。言語と音楽、この二つはどちらが私たち人間の「意識の根幹」に近い表現形態であるのか、そこが「引き寄せ」に関連するテーマともなります。

かねて私自身、「意識」というものは脳内に存在するものだと、漠然とながら思っていたのですが、どうにも最近、意識の根幹に関わるものの多くは実のところ「脳内には無い」と思えるのです。

もっと突っ込んだ表現をするならば、私たち自身の意識(特に潜在意識)にとって、人間の本質にとって、言語とはむしろ邪魔になることが多い存在ではないか、そんな疑念があります。

一方で、音楽における和音(コード)は、例えばメジャーコードは明るく、マイナーコードは寂し気な「感覚」を、皆が共通して感じるのは何故なのでしょうか。

その辺りの認識を改めると、何かしら面白い発見があるやも知れない、そんな高揚感を持って、投稿を続けたいと思うのです。






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