【コラム】思考は柔軟にはならない(たぶん)
「思考を柔軟に持て」
「考え方が硬いよ」
「頭を柔らくしろ」
「視野を広く持て」
仕事の場面でも、学びの場面でも、形を変えつつ良く言われる比喩です。
今時はどうか分かりませんが、ブレーンストーミングやディベートなど研修定番メニューも、この辺がテーマだと言えます。
「思考を柔軟にしよう」と。
私自身は、どちらかと言えば柔軟な方だったと思います。
アイデア出しや、緊張感を伴う場面で繰り出すユーモアやら、何かと機転が利く方ではありました(自画自賛の過去形)。
しかしながらです。
私のように、反芻思考過多からの抑うつ化みたいな失敗例もある訳で、際限なくそのポテンシャルを追うことには注意が必要なのは確かです。
そして、ある日ふと思ったのです。
そもそも、思考って柔らくなったり、固くなったりするものなのだろうかと。
多分なのですが、この場合の「思考」というものは、例えばガンプラのような模型を作るプロセスに似ています。
設計書や説明書を見ながら、バラバラのパーツを組み立てるアレです。
ここに「柔軟な思考」を持ち込んだら、恐らくガンプラがガンダムにならない(笑)。
やはり、基本設計には逆らえないのです。
そう考えると、思考というものも当然何かしらの秩序立った処理フローというものがあるはずです。
そう、プラモデルの取扱説明書のように。
もしかしたら、料理の「レシピ」の方が解りやすいかも知れません。
例えばカレー。
カレーにはカレーの流儀があり、最初はやはり教わって、あるいは見よう見真似で基本レシピは覚えますよね。
親から子へ、我が家はジャワ派、いやいやバーモント派、粉から作る派、肉は牛か豚かetc。
ここに「柔軟な思考」を持ち込んだら、何だか怖い感じもしますが、これはアリな感じはします。
いわゆるオリジナルレシピというやつです。
あるあるですが、一人暮らしデビューと共に「マイレシピ探し」の深遠なる旅が始まるのもカレー。
色々と自由ではあるけれど、「我が家のカレーにカレー粉は使わない」となれば、それは既にカレーではない訳で、
何かしらの制約はそこにもあります。
ところで、カレーに色々と具材を試したり、調味料やら出汁を試したりは、特に男性はやりがちです。
何と言うか、夢やロマンみたいなものを感じるんですよね。新たな味覚の冒険、食のグランドライン。みたいな。
すみません。話は「思考の柔軟性」でした。
私たちが物事を考える。その行程をプラモデルやカレーに置き換えてみますが、分類してみるとこんな感じです。
まずは材料。
プラモデルならば各種のパーツの材料。カレーならば玉ネギやら香辛料の材料。
それを私たちの脳に置き換えたなら、いわゆる「記憶」に該当するものだと言えます。
知識、情報、経験といったところが材料となり、思考はそれらを組み立てたり、煮込んだりする。
次いで設計書や取扱説明書、料理におけるレシピはどうか。ここがこの話のミソでして、私は「習慣」がこれに当たると思っています。
この「習慣」には、実に多様な要素が含まれております。
慎重であるとか、大らかであるとかの性格的なものまで。
そして、実際に組み立てたり、調理したりという作業が「思考」ということになります。
繋げてみますと、
記憶=材料を、
習慣=説明書やレシピを参照し、
思考=組み立て、作る。
こんな感じで、私たちは何か物事を考え、答えを出したりしているのではないか、と思い至りました。
こうして見ると、ちょっとピンと来るのです。
お題の「思考を柔軟に」という指摘に対して、本来柔らかくすべきなのはどこなのか。
そう、「習慣」なのですよ。
レシピを見直すんです。
私たちが物事を考える時、単に知識や情報、経験だけではなく、料理で言うところのレシピみたいな、何かしらのマイルールみたいなものを参照している。
それをここでは「習慣」と一括りに表しています。
この、思考における習慣にも、環境やら学びから身に付く後天的なもの。遺伝的な部分を含めた生来のものがあるはずです。
それ故に一筋縄ではいきません。
言ってみれば、思考というものはこの「習慣」、すなわちマイルール、マイレシピに忠実であろうとする存在ですから、硬いのが当たり前なんだろうなと思えるのです。
なので、思考は柔軟にならない(たぶん)のです。
そうです。柔軟性を求めるべきは「習慣」のほう。つまり、マイルール、マイレシピの見直し。普段何気なくやってる選択や決断のクセが私たちに特性を与えている。
良くも悪くもです。
その辺にハタと気付くと、人生いくらか楽になるはずです。
そんなお話しでした。
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