嫌われる勇気は何故言葉の餌食になったのか。読書感想文。

 アドラー心理学の知名度を一躍青天井に押し上げたであろう著書「嫌われる勇気」をうろ覚えながら振り返ってみる。

 この物語は対話形式での解説を目的としていたのだろうと一応勝手に察してはみたが、にしても言葉の壁は以前大きかったように思う。アドラーの言葉を正確に翻訳するというアプローチ自体が言語化過程と整合性がとれていたか?や、二極を否定して中間を扱う時には逆に感情的な言葉が足掛かりになるかと私は勝手に思っていたが、登場人物が既に感情と理性の体現者と解釈できる2人だったので、表現としての緩急が一層難しかったのか終ぞグラデーションに忠実な構造重視の表現技法は少なかった気がする。




続いて内容。

 記憶が定かであれば序盤は「人は変われる」という提唱に集中していた。

 中でも原因論と目的論を切り替える事で人格や実効性に影響を与えられるといった言葉の上の応酬が有ったが、実際にはどうであったか疑いを持った。というのも原因論を原因として解釈し、改善策として目的論を主張するというやり方を現代日本の解釈基準なら「誤りの打破」や「より良い方法論」として読解してしまうかもしれない。だからアドラーとはここに言及しないような人物かどうかが文中では明瞭ではなかった分、偶然にだと思うが読み手のコンディションに激しく依存する構成になったきらいがあるかもしれないと邪推している。

 勢い、この誤読は終盤に提唱された「存在価値」と出会った時に副作用が生じる気がする。人間が存在するだけで保持している価値が内包する諸価値の例として、行動する動機についての条件的言及が薄く、変われるという文字はいつしか「変わってあくせく動いた方が良い」といった無駄な動機づけに至らないとも考え難い。

 仮にアドラーがこの焦りを予期する人物なら恐らく「変われる」という言葉の意味は「選択権は常に手中にある」と伝えたくて使用したのかもしれない。そうなら「人は変われる」の章の近くに「トラウマは存在しない」の章があるのも納得がいく。この距離感も私の記憶違いかもしれないが。


 さて、アドラーを判断するなら何と言っても中盤の提唱「課題の分離」を逃す手はない。この物語の中核といっても過言ではないこの概念だが、それだけに解釈も別れる事が多い印象だった。

 しかしそもそもこの「課題」というフレーズについての厳格な定義がないからこそ混迷は生まれてしまうように思えた。前後関係から考えれば「それは誰の目的か」と再解釈しても構わないと思ったものの、目的の持ち主を判別した後、具体的に金銭の問題や暴力の真っ最中に起こすべき思考の問題についてはかなり弱い主張だと感じる。

 この物語で出てくる例え話の登場人物に「トラウマを持った無職」、「育児中の親」、「レストランで怒る男」etc...といったバリエーションが見て取れるが、無駄に特化した例題はかえって提唱したい話の補強材に成り下がっていて、この状態が改めて精神とは何かという根源の問題を浮き彫りにしてしまったと私は思った。これは訳者の不手際なのか、著作に関わった人間の誘導なのか、それともアドラー本人の詰めの甘さなのか予測ができずにいる。



 この脆弱な思想の経過は軈て終盤に提唱された「共同体感覚」の章でお花畑に変貌を遂げていて、見ていて正直辛かった。例え話だったからこそ無職の男は生きていたし育児に熱中する親は子供を物理的に害さなかったが、彼らはその境遇にあってなお自分が変われるかどうかという話に興味をそそられる人々だっただろうか。嫌われる勇気は、現に社会に生きられている人々には実は然程真剣に求められない物語ではないのだろうか。

 認知の歪みで病院に行くべきか?という問題はある程度の知識を持っている人間なら一度は考えた事があるかもしれないが、正に本書から派生する問題の焦点は図らずもここへ当たる可能性を捨てきれない。社会で上手く生きられずに悩む人々への語り掛けとしてアドラー心理学を提示する事は無駄にはならないだろうけど、人間関係の悩みで失職したり暴力からの守護が受けられなかった人々は、再雇用まで無収入で奔走したり孤独に戦ったりすればどうなるかという肌感覚から、アドラーが提唱するような豊かな精神運営との両立を拒むのではないだろうか。

 ここで改めて「嫌われる勇気」の題名を精査する必要を感じる。確かに初めに思考、次に推論、最後に行動という方式を全人類が環境に関わらず採っているなら嫌われる勇気は万能だったし、西洋の禅にさえ君臨したと私は考えた。そうならなかったのは、アドラーの想定した精神構造が、社会の勃興ではなく社会の中の営みに終始した点に起因するのかもしれない。



 時に、アドラー本人が引用したのかは不明だが文中に「人間は1人では生きていけない」の使用が見られたと記憶している。アドラーは何故ここに目的論を当てはめなかったのか熟気になる。「1人で生きられないのは人間の弱さを過信しているからだ。本当は恐怖してやりたくないだけだ」といった具合に。

 無論回答の予想は概して立つ。それとこれとは別なのだろうと思う。けれど事程左様に因果性との和解が成立しなかったので、少なくともこの著作の中だけでは西洋の禅たりえなかったのも考慮していい箇所と言えそうだ。



 話を戻すと現代日本で精神的ケアを福祉止まりの存在としてしか見ないなら法律や政治家の論調は全て原因論に立脚し、嫌われる勇気は所詮それほど困っていない層の人々が嗜むトレンディな嗜好品的名著にしかならない。内容も確かにそれ相応だと感じるし。

 だからこそ、私なんぞと違って何かを探求しようという動機からアドラー以上に捨て身に似た情熱を伴わせて物語が読めなければ、「仕事には他者貢献という側面がある」という文章さえ無力感や無価値感の原因になるはずだ。決してアドラーが理不尽に対して注釈をつけなかった訳ではないが、同時に理不尽で受けた損失に疎かったかもしれないのは矢張り大きい。



 纏めると少なくとも「嫌われる勇気」という作品はある程度精神衛生に寄与するリセットの教材にはなるが、原動力としては弱いというのが全体を通して見え隠れしてしまう人気作だった。

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