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「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理



はじめに

 Podcast及びYoutubeで活動している、「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツがある。皆様はご存じだろうか。

 ご存じない方に向けて、簡単にご紹介しておきたい。

「ゆる言語学ラジオ」はその名の通り、言語学的なトピックを、面白おかしく扱うラジオだ。具体的には、「象は鼻が長い」の主語は「象」か「鼻」かという議題や、英単語「spring」が「春」や「ばね」や「泉」という複数の意味をもつのは何故か、等の興味深い話を聞くことが出来る。

 しかしこの「ゆる言語学ラジオ」、言語学という名を冠している以上、学術的な見地から批判を受けることがたまにある。
 要するに、学術的に正確ではないこと、厳密ではないことを、インターネットを通して垂れ流しているという批判である。


 こういう批判それ自体は決して珍しいものではない。ありていに言って、インターネット上では、よく観察される類のものだろう。
 例えば量子力学とスピリチュアルを結びつける発想に「それは科学じゃないよ」と言う物理学者や、ヒトラーに善人としての側面があると示唆する風潮に「スットコドッコイ」という歴史学者がネット上にはいる。

 こういう例は、枚挙にいとまがない。

 要するに彼らは、学術的な理論や知見が、メディアでテキト~に捻じ曲げられていることに危機感を抱き、警鐘を鳴らしているのである。

 それは非常に大事な視点だし、公共性のある批判だ。素晴らしいと思う。もっとやるべきだ。

 僕は漫然とそう思っていた。


 しかし、「ゆる言語学ラジオ」がごさんによって批判された際、私はほんの少しだけ違和感を覚えた。
 

 この記事は、その違和感を深堀するものである。

 最終的には、「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツの特異性を明らかにしたい。そのうえで、「ゆる学徒たち」がなぜあまり人気ではないのかという疑問や(失礼)、「知識」という概念の分類にまで踏み込みたい。

 

「ゆる言語学ラジオ」批判

 まず、これはそもそも、どういう問題であったのかをざっくりと整理してみたい。

「ゆる言語学ラジオ」が大体二年前、『「主語を抹殺せよ」魅惑の三上文法と言語学のロマン』という動画をYoutubeに投稿した。

 この動画は、「象は鼻が長い」の主語は「象」なのか「鼻」なのか、というトピックを扱っている動画シリーズのうちの一本である。

 この中で「ゆる言語学ラジオ」は、当時の言語学者たちが、三上というアマチュアの革命的な学説をほとんど全く無視し、そして冷遇したと捉えられる発言をした。

 まぁこれはすごく乱暴な要約だけど、「ゆる言語学ラジオ」のYoutube上チャプターでも「三上文法は学会で黙殺された」と表現されているから、おおむね間違っていないと思う。

 この旨の発言が、言語学会(当時の言語学者たち)を、まるで悪者であるかのように表現するものとして、しかも事実無根だとして批判されたのである。

 そこから(それが端緒だったかは分からないけど、少なくとも上記の批判と同じ文脈で)、学問をエンタメ化するコンテンツそれ自体に対する是非が問われることになる。

 例えば、批判者のごさんの記事では、学問を面白おかしくエンタメ化、コンテンツ化しようとする運動について、「面白さの代償」という項で次のように述べられている。

似たような話は何も言語学に限らないが、話題が学問的なものであろうとも、それがメディアで取り扱われれば、どうしても「おもしろおかしく」「刺激的な」紹介をされがちである。

ご『正解はないけれど…』

しかし、諸刃の剣というか、エンタメの代償というか、一度そうして広まったことはもはや容易に訂正できない。なんだかんだで「テレビで言っていた」という信用度は侮れない。また、面白いとなれば人は知人に話したくなるものだけれど、人間は知人を介して聞いた話は、赤の他人(それがその道の専門家でも)より信頼しやすいというバイアスもかかる。

ご『正解はないけれど…』

 

 要するに、学術的な厳密性とエンタメ的な曖昧性を、トレードオフの関係で捉えた上で、エンタメ性を追求し学術性を犠牲にする問題として、この「ゆる言語学ラジオ」騒動は捉えられたと言って良いと思う。


「ゆる言語学ラジオ」批判に見られる、ある特徴

 前項で、「ゆる言語学ラジオ」批判の特徴の一つとして、エンタメ性のために学術性を犠牲にしているという図式が採られていることを紹介した。

 この項ではさらに記事を参照しながら、「ゆる言語学ラジオ」批判の中身を検討し、その特徴を見ていきたい。


 実は批判者のごさんは、前述の『正解はないけれど…』の続きとして、一定の時間を置いた後に、『「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと』という記事を投稿している。

 実は、私が主に違和感を覚えたのは、こちらの記事である。この記事を読んで、「ゆる言語学ラジオ」批判の中に、何か不健全なもの(と言っては失礼かもしれない)が内包されていたのではないか、という疑問がわいた。

 それを説明するために、主な批判を取り上げて検討を加えてみたい。
 僕が覚えた違和感に直接関係するトピックのみ取り上げるので、全ての項に検討を加えるわけではないこと(そんな能力は僕にはない)は、ご理解頂きたい。

 なお、もし当該批判記事を未読の方がいらしたら、リンクを貼っておきますので、必要に応じて参照してください。



「言語は繊細なものである」について

 最初の批判をおおざっぱに要約すれば、次のようになると思う。

 言語はアイデンティティ(国籍や民族など)と関わりが深く、おふざけ半分で扱える問題ではない。
 歴史を振り返れば言語による差別もあったのであり、それを面白おかしく扱うべきではない。
 したがって、「ゆる言語学ラジオ」はけしからん。

私の要約①

 すごい乱暴な要約。ちゃんと読みたい人は、元記事を参照してください。

 まぁすごく乱暴なわけだけど、おおむね論旨はこういうことだろうと思う。

 確かに、歴史を顧みて現在の自分の暴力性を自覚しようとしたり、何気なく無意識で行うことの加害性に気を付けようというのは、立派なことではある。
 それは言語学だけでなく、たとえば歴史学や政治学でも大事なポイントだろうと思う(私の推測)。


 しかし、この問題意識が「ゆる言語学ラジオ」に向けられることが妥当か、というとかなり微妙なところがある。
 私は「ゆる言語学ラジオ」をほとんど最初から見ているけれど、このラジオが言語とナショナリティを乱暴に結びつけて誰かを傷つけるとか、ましてや差別をするとかいうことは、全く観察されえない現象だったろうと思う(自分の記憶では)。

 一つの具体例として「母語話者なのに?」という「ゆる言語学ラジオ」用語を(批判者に倣って)挙げてみたい。
 これは、「ゆる言語学ラジオ」が日本語についてのトピックを扱う際に、よく使用されていた言葉である(最近はあまり聞かない)。

 主な用法としては、ラジオの話し手がラジオの聞き手に対して、普段何気なく使用している日本語の謎(例えば助詞の「た」はどうして未来のことにも過去のことにも使えるのか等)を提起する際に使われる。

 端的に言えば、何気なく使っている日本語のルールを論理的に説明できない人に、煽りが半分、本題への導入の際の問題提起が半分くらいのテンションで、よく使われていたのだ。

 これに対して、ごさんは次のように指摘する。

「ゆる言語学ラジオ」で流行った煽り文句に「母語話者なのに?」というものがある。しかし、およそ言語学者は使うのを避けるべき言葉のように思う。実際のところ言語学を学んでいると「母語話者なのに気づかなかった」ということはよくある。つまり「母語話者でも意識的に説明できない」ことを明らかにするのが言語学の仕事のひとつであり、逆に言えば、母語話者であれば母語についてすべて説明できるのであれば言語学は要らないのである。

他方、言語学者は外国語や方言調査など、自分の非母語である言語についてその言語の母語話者に協力してもらうことがある。当然、母語話者でも説明できないことはあるのだから、そこで言語学者の出番なわけだが、決して「母語話者なのにわからないんですか?」などと煽るようなことを言ってはいけない。母語話者の協力なくして、言語学は立ち行かないのである。

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

 皆さんは、この指摘を妥当なものだと思うだろうか。
 私は、この問題意識それ自体は健全だと思う。しかし、これが「ゆる言語学ラジオ」批判として妥当するかと言われたら、正直的外れのように感じる。

 批判の趣旨はこうだ。

 言語学は母語話者の協力なしには発展しない。また、母語話者でも母語を説明できないからこそ言語学の存在意義がある。
 ゆえに、母語話者の協力をないがしろにするような煽りはよくない。

私の要約②

 しかし、「ゆる言語学ラジオ」の話し手がこの煽り文句を使う対象は主に、「ゆる言語学ラジオ」の聞き手(リスナーではない)のみと言って良い。少なくとも、何等かの言語の母語話者一般ではないし、さらには言語学に協力してくれる母語話者たちでさえない。
 この煽りは主に、「母語話者なのに?」と言っても崩れない信頼関係がすでに築かれている相手(ラジオの相手)にのみ使われていたのである。したがって、この煽りが、言語学と母語話者の協力関係を破壊すると想定することには、無理があると言わざるを得ない。

 批判者の持つ危機意識、問題意識それ自体は健全なのだ。しかし、その批判が「ゆる言語学ラジオ」に当てはまると主張することには困難があるのだ。


 ここで僕たちは、「ゆる言語学ラジオ」批判の特徴の一つを、仮説的に指摘することが出来る。少し長くなるが、一文にまとめてみたい。

「ゆる言語学ラジオ」批判者は、差別の歴史や言語学の発展などといった特定のコンテキストの中では妥当する、「言語をテキトーに扱うべきでない」とか「母語話者を煽るべきでない」とか言った規範意識(問題意識)を、そのコンテキストから無理やりに引き剝がし、元の文脈とは全く異なる「ゆる言語学ラジオ」というコンテキストの中に侵入させたうえで、ほとんど無際限に暴走させている。


 実をいうとこの特徴は、すでに引用した批判文の中にも見いだされるものである。もう一度引用してみよう。

しかし、諸刃の剣というか、エンタメの代償というか、一度そうして広まったことはもはや容易に訂正できない。なんだかんだで「テレビで言っていた」という信用度は侮れない。また、面白いとなれば人は知人に話したくなるものだけれど、人間は知人を介して聞いた話は、赤の他人(それがその道の専門家でも)より信頼しやすいというバイアスもかかる。

ご『正解はないけれど…』

 この批判にも関わらず、まず、「ゆる言語学ラジオ」はテレビではない。したがって、『なんだかんだで「テレビで言っていた」という信用度は侮れない』という危機意識を「ゆる言語学ラジオ」に向けることには、明らかに無理がある。

 テレビには何等かの信用度はある(あった)かもしれないし、テレビには国民レベルの影響力がある(あった)かもしれない。
 しかし、この批判記事が出た当時の「ゆる言語学ラジオ」のチャンネル登録者数は、批判者自身の報告によれば14万人ほどだったそうだ。果たして、テレビと同一視できるレベルの影響力だろうか。

 もちろん、メディアがテレビだろうかネットだろうが、間違いを広めることは望ましいことではない。しかし、僕たちの関心は今、「ゆる言語学ラジオ」批判の特徴を抜き出すことにある。
 この観点からみると、「ゆる言語学ラジオ」批判者が、テレビというメディアにおける問題意識をその文脈から分離させ、インターネットというコンテキストに強引に当てはめていることは自明であって、ここに批判者の特徴がよく表れている。

 私はこの特徴を、「ゆる言語学ラジオ」批判の無理として、ここに提出する。
 すなわちその特徴とは、特定の文脈では妥当な問題意識や規範意識を、全く別の文脈に移植し、その移植のプロセスが妥当かどうかの吟味もしないまま暴走させるという点である。


「先行研究に言及するときの態度」について

 次の批判を検討してみたい。

「ゆる言語学ラジオ」においては、研究者の、非常に難解で理解できない先行研究を、半ば理解できない自分たちへの自虐として、半ば専門家の凄まじい一般人との乖離への驚きとして、笑いながら紹介することがある。

 これに対し、批判者は言う。

その場面しか見ていない人には、馬鹿にしているようにしか見えないかもしれない。たとえ言及されている本人(例えば監修の先生)が良しとしてもである(本人がいいって言ってるんだからいいじゃん、と言うのはいじめっ子の理屈と大差ない)

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

 いじめっ子の理屈と大差ない! これは本当だろうか。

 むろん、私は批判者の仮定、つまり「ゆる言語学ラジオ」を監修しておられる研究者の方が、ご自身の研究を「ゆる言語学ラジオ」によって笑われることを良しとしたのかは分からない。そもそも、そんなやり取りがあったのかも不明だ。

 しかし批判者が採用する、いじめの構図と「ゆる言語学ラジオ」の構図を同一視するという論理には、困難があるように思う。

 いじめっ子が「本人がいいって言ってるんだからいいじゃん」と言うことの問題点は、本当は本人はいいと思っていないのに、いじめっ子によって、いいと無理やりに言わされているという点にある。
 一方で「ゆる言語学ラジオ」においては、「ゆる言語学ラジオ」がいじめっ子のような暴力性をもって監修の先生方に、自身の研究を笑われることを「問題ない」と言えと強制したとは、ちょっと考えにくい。(そもそもそんな事実は提出されていない。もちろん、仮定の話ではあることは分かるけど)


 ちょっと仮定の話に突っかかりすぎた。批判者の言葉に耳を傾けよう。

たとえば次のような場面を想像してほしい。
頑張って書いたレポートを提出したら、クラスメイト全員の前で、難解すぎて理解できないと先生に笑われるような場面を;
数日かけて用意した資料を、いざお客さんの前でプレゼンしてみたら、難しくて全然わからなかったと笑われる場面を。

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

 批判者がそれぞれの場面設定で、実際にどういう状況を想定しているのかは厳密には分からない。
 しかし、一般的な意味で「クラスメイト」と言うとき、おそらく高校生までのクラスと先生を想定しているのだろうし、「お客さん」と言うとき、おそらく社会人として営利活動を想定しているのだろう。

 これらの場合において、レポートの読者として先生が、プレゼン資料の読者としてお客さんが想定されているというのは、暗黙の前提のように思う。
 その想定があるにも関わらず、想定した相手に伝わらなかったから、先生やお客さんは「難解だ」とやや批判気味に笑うのである。

 しかし、「ゆる言語学ラジオ」の事情は、このように想定された場合とは全く異なる。「ゆる言語学ラジオ」で難解な先行研究が笑われる際の笑いの機序は、以下のように記述できるだろう。
「ゆる言語学ラジオ」は、自分たちが研究の読者(伝える相手)だと想定されていないように感じるからこそ、自分が賢くて凄い専門家の研究から突き放されたように感じられ、それが自虐的な笑いになるのである。

「ゆる言語学ラジオ」において、笑われているのは難解な先行研究でもなければ研究者でもない。「ゆる言語学ラジオ」自身である。「ゆる言語学ラジオ」自身の知識不足が、「ゆる言語学ラジオ」自身によって笑われているのである。

 一方で、批判者が想定する状況においては、先生やお客さんに笑われているのは、知識不足の先生やお客さん自身だろうか。もう一度引用してみよう。

頑張って書いたレポートを提出したら、クラスメイト全員の前で、難解すぎて理解できないと先生に笑われるような場面を;
数日かけて用意した資料を、いざお客さんの前でプレゼンしてみたら、難しくて全然わからなかったと笑われる場面を。

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

 批判者は「笑われる」対象が何かを明示的に表してはいない。しかし普通に読むなら、「笑われる」対象は自分だと読めると思う。

 批判者が想定する状況において、笑われているのは難しい資料を作り難解なレポートを書いた自分自身であり、これは「ゆる言語学ラジオ」の文脈における先行研究者に対応する。
 一方で「ゆる言語学ラジオ」において、笑われているのは先行研究者ではなく「ゆる言語学ラジオ」自身である。
 したがって、批判者の想定する状況は「ゆる言語学ラジオ」の実態とは全く異なり、批判者の問題意識は「ゆる言語学ラジオ」には妥当しない。

 ここで僕たちは、先ほど指摘して批判者の特徴が、やはり垣間見えていることに気付く。
 僕は先ほど、「ゆる言語学ラジオ」批判者の特徴として、次のことを指摘した。

 その特徴とは、特定の文脈では妥当な問題意識や規範意識を、全く別の文脈に移植し、その移植のプロセスが妥当かどうかの吟味もしないまま暴走させるという点である。

 この特徴が、今回のトピックにもにじみ出ている。
 批判者は、「いじめ」や「クラスメイト全員の前で笑われる」などという悲惨な状況に対する問題意識を、その特定の状況から引き剥がし、「ゆる言語学ラジオ」という別の状況に対して、無根拠に適用しているのである。


付記:「先行研究に言及するときの態度」について

 ただそうはいっても、僕にも批判者の気持ちには共感できるところがある。

 一般に先行研究に言及する際には、その研究及び研究者への敬意というか配慮というか、そういうものが学問的誠実さの一つとして求められるように思う。

 この理想に照らし合わせてみると、「ゆる言語学ラジオ」はしばしば下ネタや卑近すぎる例示によって、先行研究の意義を俗物的に汚辱する。

 この攻撃の対象になるのは先行研究だけではない。VALUE BOOKSの社員さんとVALUE BOOKSの倉庫を見学した際にも、行き過ぎた下ネタによって社員さんを困らせていた(ように私には見えた)。

「ゆる言語学ラジオ」は、高尚で難解なものに親近感を与えるために頻繁に下ネタを利用する傾向があり、それが一部の人には、学問の文化的意義に対する危険に見えるのだろうと思う。(僕も危険だと思う)

 高尚な何かを下ネタで汚辱する以外にも、それに親近感と面白味を与えることは出来るように思う(僕はラジオなんてしたことないけど)ので、そういう場面が増えればいいな、とは思っている。
 そういう意味で、批判者の問題意識には十分に寄り添うことは出来る。
 しかしいずれにせよ、批判者の記述が「ゆる言語学ラジオ」に妥当しないことは、先に示した通りである。


結論:「ゆる言語学ラジオ」批判の論理的無理

 以上の考察により、僕たちは「ゆる言語学ラジオ」批判に見られる、奇妙な特徴を指摘することが出来た。

 批判者は、特定の文脈における規範意識や問題意識を、全く別の文脈に対して、根拠も吟味もなく適用している。

 それがたとえば、インターネットを普段から見ている僕には、ローカルな正義(規範)で他者を遠慮もなく断罪する、一部の悪名高い人びとを連想させるのである。
 それがたとえば、日本で学校教育を受けてきた僕には、先生の言いつけを無批判に内面化しクラスメイトの悪事を杞憂する、潔癖なまでに真面目な一部のクラスメイトを思い出させるのである。
 それがたとえば、「ゆる言語学ラジオ」リスナーである僕には、場違いな理想を強権的に掲げてお気に入りのコンテンツを潰しに来る、批判の素養に恵まれていない批判者として映るのである。(失礼な言い方かもしれない)

 これが暫定的な、「ゆる言語学ラジオ」批判に覚えた私の違和感についての深堀りである。
 私としては、(自分でやっているから当然なのだが)結構スッキリ、自分の違和感を言語化できたと思っている。


 にも関わらず、実は僕がタイトルで言っている「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理というのは、批判者のこの特徴のことではない。
 多分、問題はもっと根深く複雑である。僕が思うに、批判者の潔癖な規範の暴走は、インターネット文化史(?)における、知識のカオス化とでも言える現象の一つの現れに過ぎない。

 結論を先取りしていえば、「ゆる言語学ラジオ」批判という現象は、「事実として伝えられない知識」を無視あるいは軽視し、「事実として伝えられる知識」のみに「知識」という称号を与えようと試みる、インターネット的倫理の暴走の一つの現れだった。


 しかし、ここまでの文章が長くなったので、「ゆる言語学ラジオ」批判についての論考は、ひとまずここで終了したい。ここまで読んでくれて、どうもありがとうございます。

 なお、当然「ゆる言語学ラジオ」批判には、僕が意図的に取り上げなかったトピックもたくさんあります。その中には、興味深い指摘やためになる知識もたくさん含まれています。
 気になる方は、元記事をもう一度貼っておくので、参照してください。

 ただ正直、僕の個人的な所感としては、ここで取り上げなかったトピックは以下の三つの要素に要約されるように思うので、あまり参照の必要性は感ません。その三要素とは、
・研究者や学会の潔癖な神格化
・「ゆる言語学ラジオ」批判に直接関係ない知識の披露
・「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツへの無理な要求
と言ったところでしょう。まぁしかし、各々が読んで判断してください。

 ところで今僕は、『「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツ』という言葉を意図的に使いました。
 どういうことかと言うと、僕は「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツを、インターネットにおける例外的な事象だと考えており、その例外性に「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツの際立った特徴があると考えているのです。そしてそれが、実は僕が本稿で主張したい結論のための、きわめて重要な予備知識(予備分析?)なのです。

 そこで、インターネットにおけるコンテンツとして「ゆる言語学ラジオ」について、次章から書いてみたいと思います。




 「ゆる言語学ラジオ」

 予告通り本章からは、「ゆる言語学ラジオ」とは、いかなるコンテンツなのかということを考えてみたい。

 しかし、その歴史をたどることは僕には難しいし、その本質を見極めることも僕にはできない。

 そこで本章では、本論のための準備として、「ゆる言語学ラジオ」の不思議な魅力(魅力の不思議さ、と言ったほうがいいかも)を、ちょっと真面目に考えてみたい。


問題の所在

 思えば、「ゆる言語学ラジオ」は不思議なコンテンツである。
 様々な人が指摘してきた通り、言語学というトピックでここまで(現時点で20万人ほどのチャンネル登録者がいる。すごい!)集客できるなんて、これまでの常識ではちょっと考えられない。

 学問という切り口でも、ラジオというフォーマットと、「ゆる言語学ラジオ」的な面白おかしさ(批判者によって批判されたもの)があれば、ここまで集客できるのだろうか。
 ひょっとしたら、僕も誰かとラジオを撮って学問を面白く紹介すれば、人気者になれるかもしれない。

 実はこの思い付きは、「ゆる言語学ラジオ」のパーソナリティ自身によって、すでに試みられている。
 彼は「ゆる〇〇学ラジオ」というフォーマットを開発し、そこに音楽や天文学、民俗学や哲学(僕の専門分野と近い! 嬉しい!)などを代入して、様々な「ゆる〇〇学ラジオ」を生み出した。

 にも関わらず、現在のところ、「ゆる言語学ラジオ」以外の「ゆる〇〇学ラジオ」は、その派生元である「ゆる言語学ラジオ」ほどの人気を得ているとは言い難い。(これは失礼な言い方かもしれない)

 一つの指標として、チャンネル登録者数というものさしを使ってみよう。
 繰り返しになるが、「ゆる言語学ラジオ」のチャンネル登録者数は、現時点で約20万人だ。

 例えば「ゆる音楽学ラジオ」のそれは、現時点で約1万人。
「ゆる民俗学ラジオ」のそれは、現時点で約2.3万人。
「ゆる生態学ラジオ」のそれは、現時点で約1.2万人。
「ゆる書道学ラジオ」のそれは、現時点で約0.7万人。
「ゆる天文学ラジオ」のそれは、現時点で約0.8万人。
「ゆる生態学ラジオ」のそれは、現時点で約1.2万人。

 なお、「ゆる言語学ラジオ」のそれは、現時点で約20万人である。

 この現状は、上述の「ゆる〇〇学ラジオ」たちが、「ゆる言語学ラジオ」の視聴者にアピールされていたことを考えると、きわめて奇妙な状況である。

 では、言語学というトピックが、そもそも人の注目を集めるトピックだったのだろうか。
 しかし、「ゆる言語学ラジオ」批判者が推薦する「国立国語研究所」というチャンネルを見てみると、この仮説も有力ではない。
  学術的なコンテンツの価値をチャンネル登録者の多寡で計測しているようで大変心苦しい(申し訳ない)のだが、ここのチャンネル登録者数は約1.3万人である。とても、言語学そのものに、一般人を引き付ける魅力があるとは思えない。

 では「ゆる言語学ラジオ」は「ゆる言語学」の部分、つまり言語学という難しくてとっつきにくい話を、分かりやすく紹介するという部分が魅力的なのだろうか。

 しかし、この仮説も疑わしい。実は「ゆる言語学ラジオ」以前にも、「ゆるふわ生物学」というYoutubeチャンネルがあった。(MHWの植物分析は最高に面白い)
 確かにこのチャンネルはラジオ形式ではないから、単純な比較はできない。
 しかし、「ゆるふわ生物学」のサブスクライバーが、現時点で約3.6万人であることは象徴的だと思う。(「ゆる言語学ラジオ」とは桁が一つ違う)


 これまでの分析を整理すると、次のようにまとめられると思う。

・ラジオ形式で面白おかしく学問を喋ることが、一般的に魅力的というわけではないらしい。
・言語学それ自体に多くの人を引き付ける魅力があるとも言えないらしい。
・学問を「ゆる」く紹介することが、一般的に人の目を引くわけでもないらしい。

 では、どうして「ゆる言語学ラジオ」はここまで大きくなったのだろうか。


一つの仮説

 上記の仮説を棄却した後に「ゆる言語学ラジオ」の魅力的な部分として考えられるのは、「ゆる言語学ラジオ」におけるパーソナリティの存在である。
 つまり、水野さんと堀元さんという二人の人物や、この二人の話し方に、何か大きな魅力があったのではないかと仮説を立てるのが、手続き的に(消去法的に)妥当だと思われるのだ。

 実際この仮説は、「ゆる言語学ラジオ」をただ漫然と眺めていても、容易に立てることが出来るものである。

 というのも実は、「ゆる言語学ラジオ」は言語学だけを扱っているのではない。クイズや蘊蓄バトル、雑談なども言語学的コンテンツと同等に人気なのである。
「ゆる言語学ラジオ」のチャンネルにある動画を、人気順で並べてみよう。

ゆる言語学ラジオの動画(人気順でソート)(2023/7/19時点)

 もちろん、基本的には全て、言語に関する動画である。

 しかし再生数2位の動画は、「ゆる言語学ラジオ」の二人が蘊蓄で戦う動画であり、3位の動画は「ゆる言語学ラジオ」の二人が厨二病的なフレーズで戦う動画である。
 4位の動画は「ゆる言語学ラジオ」の二人が、辞書を通読した人の面白い話で盛り上がる雑談的動画で、6番目の動画は受験生に向けて英単語の語源を「ゆるく」話す動画である。8番目に至っては、コンピュータに詳しい人がコンピュータ用語の乱用に怒る動画だ。

 先述のように、もちろん「ゆる言語学ラジオ」のこれらの動画は、言語に関係する動画ではある。
 しかし、言語学そのものを扱っているというよりも、「ゆる言語学ラジオ」の二人が言語にまつわるトークをしていると言ったほうが適切だと思う。

 つまり「ゆる言語学ラジオ」において、言語学ないし言語は、あくまでもテーマ、話すきっかけのようなものに過ぎないのであって、言及される唯一の対象ではない。
 実際、話されるトピックが蘊蓄や雑談でも、「ゆる言語学ラジオ」は多くの人に見られている。ということは、話されるトピック自体は、「ゆる言語学ラジオ」の人気にあまり関係がないのかもしれない。

 以上の分析を踏まえると、次のような仮説を立てることができる。

 このコンテンツの主眼は、話される「言語学にまつわるもの」よりも、話す「ゆる言語学ラジオ」の二人のパーソナリティのほうにあるのではないか。
 すなわち、「ゆる言語学ラジオ」においては、話される題材それ自体に価値があるというよりは、話す二人のほうに価値があるのであるのではないか。


「ゆる言語学ラジオ」に見られる、二つの特徴

 以上、僕たちは、「ゆる言語学ラジオ」を理解するための一つの仮説を提出した。

 では、「ゆる言語学ラジオ」における話す二人の魅力とは、どのようなもので、他のコンテンツと何が異なるのだろう。
 これを探求するために、本章では「ゆる言語学ラジオ」に見られる、ある特徴を抜き出してみる。

 そのために、前章でも扱った「ゆる言語学ラジオ」批判、それと「ゆる〇〇学ラジオ」をそれぞれ比較対象として、「ゆる言語学ラジオ」の特徴を一つずつ抜き出すという方法を採用した。


「ゆる言語学ラジオ」批判から見る「ゆる言語学ラジオ」

 ここで、「ゆる言語学ラジオ」批判に改めて立ち返ってみよう。

 批判者は前掲の記事『「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと』において、とある国語辞典編纂者のツイートを引用しながら論を進めている。

 まず、引用されたツイートは以下のものである。

 批判者は『諸説はない』という章を立て、次のように述べている。

「諸説がある」というからには、その全てでないにしろ「複数の説があり、そのことを認識している」ということを含意するのであり、そうであれば、具体的にどういう説があり、その中からなぜとりわけその説を選んだのか、なぜ他の説ではダメなのかを説明してこそ初めて誠意があると言える。それができないのであれば、はなから「諸説あります」などと言うべきではない。とりあえず最後につけておけばテキトーな発言をしても言い訳になるであろう、と言うのはむしろ最悪な態度であると思う。

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

 少し話は逸れる(戻る)が、ここでも先ほど指摘した批判者の特徴を観察することができる。

 飯間氏は明確に『テレビ番組』について話しているのであるが、批判者はその中の「諸説ありますと安易に言うな」という規範をテレビの文脈から引き離し、インターネット番組に無根拠に、無批判に適用している。
 私が先に指摘した通りだとお分かりいただけると思う。

 批判者のこの我田引水ぶりには、驚きを禁じ得ない。この安易な主張の流用と学術性の潔癖な追求が、批判者の中でどのように整合的に理解されているのか、それ自体が興味深いトピックではある。

 ここではその疑問は棚上げしておこう。僕らの関心は、この「ゆる言語学ラジオ」批判をいわば鏡のように使って、「ゆる言語学ラジオ」の特徴を映し出すことにある。


 批判者の言葉に耳を傾けよう。
 要するに批判者は、「諸説あります」という言葉を予防線を張るように安易に使うな、と指摘しているのである。

 相変わらず、この批判は一般的には(というか、学問をメディアで伝える際に一般的に見られる単純化を批判的に眺めるならば)、それほど的を外したものとは言えない。

 しかし(これも相変わらず)、この批判が「ゆる言語学ラジオ」に妥当するかどうかは疑わしい。

 どういうことだろうか。

「ゆる言語学ラジオ」を見ていれば、扱われるトピックや学説が、どのように選ばれているのかを推定する(あくまで推定)のは、別に難しいことではないからである。

「ゆる言語学ラジオ」においては、まずは面白さ(単にエンタメ的な面白さだけでなく、不思議な現象を簡潔に説明してくれるという意味での面白さも含む)が判断基準となっているように思われる。
 実際、「ゆる言語学ラジオ」自身が告白しているように、たとえばD・L・エヴェレット著, 屋代通子訳『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』を紹介する動画の内容は、実際の本の趣旨とはかなり異なっている。

 これは、難しく複雑な本から「面白いもの」「手に取りやすいもの」を抽出し、それをさらに「面白く」紹介するのが「ゆる言語学ラジオ」の一つの特徴だからである。

 どんな学説でも、それが「面白いもの」であれば、その学説が学術的に正しいかどうかという基準を一度カッコに入れて、学術的議論への入り口として提示するのである。
 
実際、「ゆる言語学ラジオ」の「た」のシリーズを見れば、いくつかの学説が平行して紹介されていることは一目でわかる。これを見れば、「ゆる言語学ラジオ」が学術的に正しい(と考えられる)唯一の説を紹介しようとするものでないことは、火を見るよりも明らかである。
 むしろ様々な観点から同じ言語現象を捉えることができるのだという知的営為の持つダイナミズムそれ自体を、「面白さ」として紹介しているのだ。

 要するに「ゆる言語学ラジオ」とは、「言語学」という名前にも関わらず、学術コンテンツというよりかは、知的営為コンテンツとでも名付けるべきものである。
「ゆる言語学ラジオ」は、学術的に何が妥当かを決定し、その結果を自分らの学術的成果として提出しよう、というものではない。
「ゆる言語学ラジオ」は、知的に何が「面白いか」を探求しその「面白さ」を共有することで、難しい言語学を少しでも身近に感じてもらおうとするコンテンツなのである。

 ゆえに、こういう性質の「ゆる言語学ラジオ」を、『具体的にどういう説があり、その中からなぜとりわけその説を選んだのか、なぜ他の説ではダメなのかを説明してこそ初めて誠意がある』等という学術的判断基準で判定するのは不当と言わざるを得ない。

 そもそも「ゆる言語学ラジオ」は、『なぜ他の説ではダメなのか』等という判定をする立場にないし、『なぜとりわけその説を選んだのか』と言えば「面白いから」としか言えない、少なくとも、それが第一の理由として挙げられることが多いだろう(と、私は思う)。

 そういう訳だから、「ゆる言語学ラジオ」に、どの学説が正しいと考えたのか等という学術的判断を迫るのは、端的にミスカテゴリーである。
 そういう意味で、批判者の規範意識は、それ自体は正しそうに見えるけれども「ゆる言語学ラジオ」に適用されるべきではない。
 ゆえに、「諸説ある」と責任回避のために言うな、という批判も当たらない。「諸説ある。具体的な諸説としては~」と(学術的な)誠意をもって言うべきだという規範それ自体が、「ゆる言語学ラジオ」に妥当するものではないからである。

 しかし、僕らの関心はもはや「ゆる言語学ラジオ」批判を批判することにはない。むしろ、それを一つの比較対象として、「ゆる言語学ラジオ」それ自体について考えたいのである。


 この観点から見た際の「ゆる言語学ラジオ」の一特徴を、ふたたび記述してみたい。
「ゆる言語学ラジオ」とは、知的営為コンテンツとでも名付けるべきものである。
「ゆる言語学ラジオ」は、知的に何が「面白いか」を探求しその「面白さ」を共有することで、難しい言語学を少しでも身近に感じてもらおうとするコンテンツなのである。

 換言すれば、「ゆる言語学ラジオ」批判から見た際の「ゆる言語学ラジオ」の特徴は、学問性からの距離として定位することが出来る。
 学問のように「正確ではない」、「厳密ではない」、「難しくはない」、「退屈ではない」……。学術的な世界から距離があるということ(=完璧に学術的ではないということ)、これが「ゆる言語学ラジオ」の特徴のうちの一つである。


「ゆる〇〇学ラジオ」から見る「ゆる言語学ラジオ」

 しかし、実は上記の特徴は、「ゆる〇〇学ラジオ」一般に妥当するものである。
 したがって、なぜ「ゆる言語学ラジオ」だけが人気になったのかを説明するのには十分ではない。

 そこで今度は、その「ゆる〇〇学ラジオ」たちを比較対象として参照してみたい。

 だが、僕はここで正直に告白しなければならない。実は僕は、この「ゆる〇〇学ラジオ」たちをあまり積極的に視聴していない。
 最初は全般的に見ていたのだが、すぐに「ゆる言語学ラジオ」との差異を感じて、興味を失ってしまったのである。

 だから、僕がここで参照し言及する「ゆる〇〇学ラジオ」たちは、初期(まだ可能性と伸びしろの塊だった頃)の「ゆる〇〇学ラジオ」たちである。
 そういう意味で、本稿での「ゆる〇〇学ラジオ」たち批判は不公平である。始めたての「ゆる〇〇学ラジオ」たちと、数年間続けている「ゆる言語学ラジオ」を比べるのは酷だろうからだ。
 そもそも、現在の状況を反映していない可能性が十分にある。

 こういう無理を承知でも、やはり僕は、初期「ゆる〇〇学ラジオ」たちに抱いたわずかな失望と違和感を、言語化せずにはいられない。
 そこで、これからの僕の記述が、意地悪に過去をほじくりまわす類の記述であることを告白しつつ、話を進めたい。

「ゆる言語学ラジオ」の動画を数本見た後、「ゆる〇〇学ラジオ」たちを見ると、物足りなさ、欠如感のようなものを感じることがある。
 皆さんも、実際にやってみてほしい。

 結論から言えば、その物足りなさ、欠如感の正体とは、「話の脱線」や「話のふくらみ」の乏しさだったのだと思う。
「ゆる言語学ラジオ」の聞き手(堀元さん)は、ただ話し手(水野さん)の話を受動的に聞き、たまにリアクションをするだけではない。
 堀元さんは、水野さんの話に蘊蓄をつけ足したり、ある話の構造を抜き出してまとめたり(こういう前提があってこういう話になったから、こうなったんですよね~、みたいな)、同じ構造の話を漫画などから持ってきたりする。

 それは、ある意味で話の脱線とも言える。蘊蓄を足しても、同じ構造の話を漫画から持ってきても、内容としては言語学に直接関係ないからである。
 しかしそれでも、この堀元さんのアクションには重大な意味がある(と、私は感じていた)。

 どういうことか。

 僕たちリスナーは、堀元さんの蘊蓄付け足し、要約、例示等によって、水野さんの話をより立体的に、具体的に理解することが出来るのである。

 例を挙げよう。
認知心理学者が語る、言語を習得する鍵は「アブダクション」』において、帰納推論、演繹推論、アブダクション推論の三つの推論と科学のプロセスがどのように関係しているのかという遠大なテーマの話になった。
 ここで堀元さんは、この三つのキーワード、帰納推論、演繹推論、アブダクション推論という三単語を見事に応用して、分かりやすく、この複雑な話を端的にまとめてみせるのである。
 それだけではない。堀元さんは、この抽象的な話をより手触り感のある話にするために、構造的に似ている話を具体例として紹介してみせるのだ。

 僕は、実は堀元さんのこの能力こそが、「ゆる言語学ラジオ」の魅力なのだと思う。
「ゆる言語学ラジオ」の聞き手は、ただ話を受動的に聞いて、適宜リアクションをするだけではない。
 彼は、抽象的な話に具体例を与えて、白黒の論理に色を付ける。
 彼は、複雑な話を端的に要約して、混乱した頭を整理させる。
 彼は、面白味がまだ表れていない話に蘊蓄を付けたし、リスナーに話を聞かせる。
 彼は、親近感の持てない話と同じ構造を持つ身近な話を持ってきて、平面的な理解を立体的な理解に変化させる。

 僕が観察する限り、「ゆる〇〇学ラジオ」たち(の初期)においては、この「話の脱線」「話の広がり」のようなものが欠けていた。

 もちろん、「ゆる〇〇学ラジオ」の話し手たちは、非常に話を分かりやすく説明する。彼らも学術的な正確性をある程度犠牲にして(いると思われるが)、理解のしやすい面白い話を提供してはくれる。そういう意味で、「ゆる言語学ラジオ」の話し手(水野さん)の後を堅実に追いかけていると思う。
 しかし、「ゆる〇〇学ラジオ」の聞き手たちはどうだろう。堀元さんのように、話をまとめたり、蘊蓄を付け足したり、同じ構造の話を持ってきたりすることは、ほとんどなかったのではないか。そういう意味で、「ゆる言語学ラジオ」の聞き手(堀元さん)の後を追いかけようとはしていないのである。

 ここに、「ゆる言語学ラジオ」と「ゆる〇〇学ラジオ」たちの、原理的な違いが表れている。
「ゆる言語学ラジオ」は、堀元さんの積極的な介入(と、多分、水野さんの謙虚さもあって)のおかげで、常に「学ぶ側」と同じ地平に立ち続ける。「ゆる言語学ラジオ」を聞くということは、水野さんの話をテキストにしながら、堀元さんと共に、堀元さんに理解を助けてもらいながら「学ぶ」ということである。
 つまり「ゆる言語学ラジオ」は、「学ぶのを手伝ってくれる」コンテンツとして現前しているのだ。

 一方、「ゆる〇〇学ラジオ」たちは、聞き手の乏しい介入(と、多分、彼らが聞き手としてではなく話し手として選ばれているという事情もあって)により、常に「教える側」の視点を採り続ける。
「ゆる〇〇学ラジオ」たちを聞くということは、話し手の言葉をテキストにしながら、一人のリスナーとして「教えてもらう」ということである。
 つまり「ゆる〇〇学ラジオ」たちは、「分かりやすく教えてくれる」コンテンツとして現前しているのである。

 要するに「ゆる言語学ラジオ」においては、話し手よりも聞き手のほうに、より重心が置かれている(水野さんより堀元さんのほうがコンテンツのオーナー的存在である)ことが重要なのである。

 この分析により、「ゆる〇〇学ラジオ」の中でも、なぜ「ゆる言語学ラジオ」だけがここまで人気を獲得したのかについて、一つの説明を得ることが出来た。

「ゆる〇〇学ラジオ」たちには、水野さんはいても、堀元さんはいないのである。


結論:「ゆる言語学ラジオ」とは

 以上の議論から、僕たちは「ゆる言語学ラジオ」の二つの特徴を抽出した。
 ここで今一度、それらを並べてみよう。

「ゆる言語学ラジオ」は、知的に何が「面白いか」を探求しその「面白さ」を共有することで、難しい言語学を少しでも身近に感じてもらおうとするコンテンツなのである。
 換言すれば、「ゆる言語学ラジオ」批判から見た際の「ゆる言語学ラジオ」の特徴は、学術からの距離として定位することが出来る。
 学問のように「正確ではない」、「厳密ではない」、「難しくはない」、「退屈ではない」……。学術的な世界から距離があるということ(=学術的ではないということ)、これが「ゆる言語学ラジオ」の特徴のうちの一つである。

第一の特徴

「ゆる言語学ラジオ」は、堀元さんの積極的な介入(と、多分、水野さんの謙虚さもあって)のおかげで、常に「学ぶ側」と同じ地平に立ち続ける。「ゆる言語学ラジオ」を聞くということは、水野さんの話をテキストにしながら、堀元さんと共に、堀元さんに理解を助けてもらいながら「学ぶ」ということである。
 つまり「ゆる言語学ラジオ」は、「学ぶのを手伝ってくれる」コンテンツとして現前しているのだ。

第二の特徴

 この二つを改めて並べてみると、これらを関連付けて理解することが極めて容易であることがわかる。

「ゆる言語学ラジオ」は、学問的厳密性と意識的に距離を取ることによって「知的営為」コンテンツとして現れる。
 そのおかげで、「ゆる言語学ラジオ」は「教える側(=先生側=教授側=学問側)」ではなく「学ぶ側(=生徒側=学生側=知的営為側)」の視点に立つことが出来るのである。

 やや抽象的かもしれない。しかし、もう少しこのまま議論を発展させたい。

 彼ら「ゆる言語学ラジオ」は「学ぶ側」であるからこそ、研究者の先生方に「教えてもらう」「監修してもらう」という構図を作ることが出来る。「ゆる言語学ラジオ」が、研究者の先生方をゲストに招いたことを思い出し、常に「教える側」に立とうとする本要約系Youtuberなどと対比してほしい。

 そして、「ゆる言語学ラジオ」は「学ぶ側」として学び続けるからこそ、常に「知的営為」として、「学問」に接近し続けることができるのである。
 

 具体例を挙げよう。
 彼ら「ゆる言語学ラジオ」は、しばしば「学問」とか「科学」について考察を挟むことがある。例えば『認知心理学者が語る、言語を習得する鍵は「アブダクション」』では科学を前進させる人間の認知について一般法則を立ててみたり、『小林・益川理論は腐女子の妄想と同じ?偉大な科学者と腐女子の共通点について【雑談回】』では学問上の発見を卑近な例で説明してみたりする。

 これらの考察は、学問とか科学みたいな大きなテーマについて語るということを考えると、ありていに言って、やや物足りない。単純化が行われている。
 きっと「ゆる言語学ラジオ」批判者はそう言うだろう。それも間違ってはいない。

 しかし「ゆる言語学ラジオ」においては、このような大きなテーマに対し、今自分の手元にある材料で取り組むという「知的営為」そのものに価値があるのである。
 たとえ「学問」的な成果を提出することが出来なくとも、そこに接近して行こうとする「知的営為」そのものが、「ゆる言語学ラジオ」的な「面白さ」なのである。
 そうして「学問」とか「科学」のような、遠大で壮大な概念を、(厳密ではないかもしれないけれども)理解しようと試み続ける(接近し続ける)ことができるのである。

 これは、「科学」とか「学問」だけにかかわらず、特定の「学説」についても同様のことが言える。
「ゆる言語学ラジオ」は、参考文献の説明を単純化し、面白おかしく紹介する。
 しかし、特定の「学説」や学術的な説明に対し、今自分の手元にある知識やスキーマを具体的な手がかりとして、なんとか理解しよう(理解させよう)と試み続ける。
 たとえ学術的な厳密性を犠牲にしてもなお、その学術的な説明に、可能な限り接近して行こうとし続けることができるのである。

「学術的な難しい説明」の厳めしい専門用語と複雑な論理、日常生活からの乖離をあえて一度カッコに入れ、自分の手元にある具体例や認識図式(スキーマ?)を最大限使用して、その「学術的な難しい説明」を理解しようと試みる。
 この「知的営為」の「面白さ」の再発見こそ、「ゆる言語学ラジオ」が持つネット史における歴史的意義であって、「ゆる言語学ラジオ」の第一の魅力と言って良いと思う。
 この点を無視した「ゆる言語学ラジオ」批評はおしなべて不当であり、自らの批評眼の乏しさを告白しているに過ぎない。


 意識的に「学問」と距離を取ることによって、逆に、「学問」に接近していこうとする「知的営為」のダイナミズムを「面白さ」として提供し続けることができる。
 これこそ、「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツの正体であり、その特異性なのである。


結論:「ゆる言語学ラジオ」の価値とは

 ところで僕は最初、「ゆる言語学ラジオ」の不思議な魅力が、「ゆる言語学ラジオ」のパーソナリティにあるのではないかと推定した。
 もう一度掲載しよう。

 このコンテンツの主眼は、話される「言語学にまつわるもの」よりも、話す「ゆる言語学ラジオ」の二人のパーソナリティのほうにあるのではないか。
 すなわち、「ゆる言語学ラジオ」においては、話される題材それ自体に価値があるというよりは、話す二人のほうに価値があるのであるのではないか。

「ゆる言語学ラジオ」についての一つの仮説

 しかし今や、僕たちは、最初の仮説をより厳密な説明に訂正することができる。

「ゆる言語学ラジオ」の二人(特に聞き手)は、意識的に「学問的厳密性」から一定の距離を取ることで、あくまでも「学ぶ側」「学生側」に寄り添い続ける。その結果、「ゆる言語学ラジオ」というコンテンツは、「学ぶのを手伝ってくれるコンテンツ」として存在できる。
 そして「学ぶ側」に立つことによって、深淵な学問的認識に、これから至ろうとする「知的営為」のダイナミズムを、疑似的にリスナーに体験させることが出来る。

 この二人の能力、すなわち「学術」から距離を取りつつ「学術」に接近していこうとする能力こそ、「ゆる言語学ラジオ」の二人が提示した「面白さ」なのである。
 彼らは「言語学」(あるいはコンピュータ科学)を、今自分の手元にある、手触り感のある知識と慣れ親しんだ認識で理解しようと試み、実際にそれをある程度成功させる。

 彼らはアカデミズムに埋没しない。
 しかし彼らはアカデミズムに接近しようとする。
 しかも「(理解力の高い)学ぶ側」として、リスナーと共に接近しようとする。

 僕が「ゆる言語学ラジオ」においてはパーソナリティのほうに魅力があると言うとき、それは、上述の意味においてである。
 


 以上で僕は、「ゆる言語学ラジオ」の特異性とその魅力を記述してきた。

 僕の所感では、インターネット上において「ゆる言語学ラジオ」的価値、つまり自らも「学ぶ側」として、情報を提供するということを高品質で成功させた例は、ほとんどないと思う。

 一般に人びとがインターネット上において情報を提供するとき、彼らは常に「教える側」に立とうとする。
 教育系Youtuberの乱立、リスキリングコンテンツ(英会話とかプログラミングとか)の膨張、「ゆる言語学ラジオ」批判者などは、この傾向を示す好例と言って良い。

 しかし「ゆる言語学ラジオ」は異なるのである。
「ゆる言語学ラジオ」の話し手(水野さん)は、アカデミズムへの謙虚な姿勢と貪欲な学習意欲を持ち、決して驕ることがない。
「ゆる言語学ラジオ」の聞き手(堀元さん)は、難しい話の論理構造を把握し具体例を持ってくるという謎の能力を持ち、決してリスナーを置いてけぼりにしない。
 この二人がパーソナリティだったからこそ、「ゆる言語学ラジオ」はここまで人気になったし、これまでの教育系Youtuberの歴史を一つ進歩させることができたのである。

「学ぶ側」に重心が置かれているということは、決して無視されてはならない。(「教える側」への問題意識を、無批判に向けてはならない)


補論:「ゆる言語学ラジオ」批判の原理的無理

 以上で僕たちは、「ゆる言語学ラジオ」という現象はいったい何だったのか、どのような意義があったのかを見てきた。

 僕が上で示した批評の実例を踏まえて、僕が個人的に思う、批判の心得のようなものを書いておきたい。

 僕としては、ある現象を批判的に眺めるとき、当然それは、当該現象をより高い解像度で理解することを必然的に前提するように思う。
 言葉を換えれば、学術的に先行研究がなされていない「ゆる言語学ラジオ」を批判するならば、まずは自力で「ゆる言語学ラジオ」という現象を理解する理論(のようなもの)を作ることが試みられなければならない。
 こういう際には、批評眼というか哲学的素養というか、そういうものが求められる気がする。より言葉を尽くして言えば、目の前の雑多な現象を統一的に理解し、その理解を言語化し、その言葉たちを理論的に記述する能力が求められるように思う。

 ではこの観点から見たとき、「ゆる言語学ラジオ」批判者は、どれほどの水準に達していたのだろうか。

 彼は言う。

私は単純に専門家が自分の専門について話しているのを聞くのが好きなので、「ゲーム」でなくてもこのフォーマットで言語(学)専門の人が話すコンテンツを作ることができないかな、という夢想をよくしていた。(私は思いつかなかったけど、これぞという案がある人は是非つくってみてほしい;「7 Days to End with You を記述言語学者と遊んでみる」というのはゲームさんぽ的か?)結果的に「ゆる言語学ラジオ」がヒットしたことを考えると、そういったコンテンツが受ける下地はあったと思う。「言語学界隈」はそのチャンスを逃したともいえる。その穴を巧みにみつけて成功をつかんだのが(狙っていた発信者は他にもいたと思うけど)「ゆる言語学ラジオ」だったと言える。

ゆる自己批判の試み

結局私は行動に移せなかったけれど(その点では行動した「ゆる言語学ラジオ」の方が偉い)、私の周りには「言語(学)の知識がすごい」「話もおもしろい」人たちがわんさかいるわけで、自分自身が最良のコンテンツをつくることができなくても、自分が聞き手にまわる「場」を提供することはできたんじゃないか、というような後悔、というと大げさだけれど、そういったものができた。

ゆる自己批判の試み

 ここで批判者は、自身の考える理想の学術的コンテンツ像を、「ゆる言語学ラジオ」に重ねている。
 では、彼はどのようなコンテンツを理想的だと考え、「ゆる言語学ラジオ」に投影しているのだろうか。

 大雑把には、次のようにまとめられると思う。

 話す人は言語学における学術的知識を持ち、話のおもしろい人であることが望ましく、そういう人は実際にいる。
 専門性のある凄い話し手こそがコンテンツの主人公で、聞き手(になる自分)はコンテンツの中心ではない。

私の要約③

 彼はこのようなコンテンツを、あり得るかもしれなかった「ゆる言語学ラジオ」的な、理想的学術コンテンツとしているのだ。
 そしてこの、専門性を持つ凄い人が話すという場が潜在的に求められており、「ゆる言語学ラジオ」は(幾分かその品質を落としながら)この需要を満たしたと理解されているようである。

 しかし、これが実際の「ゆる言語学ラジオ」とは全く異なる場違いな理想の投影と「ゆる言語学ラジオ」という現象の誤解に立脚していることは、もはや言うまでもないと思う。

 彼が理想とするコンテンツは「学問」と意識的に距離を取ることもなく、したがって「知的営為」のダイナミズムを再現することを望むらくもない。
「話し手」がコンテンツの中心になり、したがって「学ぶ側」に寄り添う可能性も期待できず、であるからそれは、「学ぶのを手伝ってくれる」というよりも「分かりやすく教えてくれる」コンテンツのほうに近い。
 しかもそれが成功を望めないのは「ゆる〇〇学ラジオ」たちが現在進行形で実証し続けているのであり、しかも「学問」と意識的に距離をとらないという点で、この理想は(「ゆる言語学ラジオ」との近さという観点からは)「ゆる〇〇学ラジオ」以下と言うほかない。

「ゆる言語学ラジオ」とこれほど原理的に対立しているにも関わらず、『自分が聞き手にまわる「場」を提供することはできたんじゃないか』等と夢想するのは、青が赤になれたんじゃないかと思うに等しい。
 彼は、「ゆる言語学ラジオ」を見ていながら、観察することをしていない。「ゆる言語学ラジオ」を、ただの「インターネットで言語学についてテキトーなことを喋る、よくある生半可な学術コンテンツのうちの一つ」くらいに理解し、そこに自身の理想を投影、しかもその投影というプロセスが本当に妥当なのかを検討することもなく、投影しているのである。

 批判者の記事が最終的に『「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと』というの要請文の形式を取り、その中で『「ゆる言語学ラジオ」がこの記事の批判・提案を受け入れる義務は全くないし、私の主張こそが正しくて、彼らが間違っている、というための記事ではない』と強調するのは、決して偶然ではない。
 彼は自身の営みが、「ゆる言語学ラジオ」を観察したうえでの批判などでは全くなく、ただ「ゆる言語学ラジオ」という入れ物に自身の理想(規範)を注入しているだけだということを、頭のどこかでは理解しているのである(と、僕は推定する)。
 だから、この「批判」は「お願い」の形に収束する。最初から彼の「批判」は、対象の「ゆる言語学ラジオ」を理解したうえでその問題点を指摘する性質のものではなく、「ゆる言語学ラジオ」という既存のコンテンツに自身の理想を代わりに実現してもらおうとする性質のものだからだ。

 ちょっと論理が複雑になった。改めて整理しておきたい。

 彼が「批判」と呼ぶ営みは、表面上は批判に見えるが、その実、決して批判と呼べるものではない。
 それは、「ゆる言語学ラジオ」という入れ物に自身の理想を押し込み、その理想を実現してもらおうと願う、お願いの類である。
 ゆえに、この「批判」は最終的に、『ゆる言語学ラジオに望むこと』という嘆願書のようになってしまうのである。

 以上、僕は「ゆる言語学ラジオ」批判の原理的な無理を指摘してきた。
 批判の水準に達しないものを批判と呼んでいるのだから、これは原理的な無理というほかない。
(とはいえ逆に、批判者の視点からは、言語学の水準に達しないものを「ゆる言語学ラジオ」と呼んでいるように見えるだろうから、彼の問題意識に共感することは出来ると言えば出来る)


 ところで僕はすでに、「ゆる言語学ラジオ」批判の論理的な無理を指摘している。繰り返しておこう。
 批判者は、特定の文脈における規範意識や問題意識を、全く別の文脈に対して、根拠も吟味もなく適用している。

 ここに今、「ゆる言語学ラジオ」批判の原理的な無理を指摘した。改めて言語化しておこう。
 批判者は、「ゆる言語学ラジオ」という現象を理解する言葉も理論を持たないまま、自身の理想を一方的に投影し、その理想を叶えてもらおうという『お願い』を『批判』に格上げしている。


 この分析にも関わらず、僕がタイトルで言う『「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的な無理』というのは、これですらない。
(長い。長すぎる。すでに2万文字以上だ。誰がこんな文章を読むんだ)

 自己弁護的に言えば、今までに指摘したのは、批判そのものの論理的な無理と原理的な無理である。要するに、批判そのものに内在していた問題点を、僕が改めて指摘したに過ぎない。
 いわば、「ゆる言語学ラジオ」批判という現象から、特に問題のある個所を僕が言語化し、その問題性を記述してきたにすぎないのである。

 これは、多少なりとも知的訓練を受けている人であれば、能力的には誰にでもできることである。
 いや、たぶん知的訓練を受けていなくとも、多少の批評的感性があれば、すぐに「ゆる言語学ラジオ」批判の問題性に気がつくことができたんじゃないかと思う(批判者への当てつけみたいですっごく失礼。ごめんなさい)。

 とにかく言いたいのは、今までの記述は別に僕じゃなくても、頭のいい暇な人なら誰でも出来る指摘だということ。
 多分だけど将来、文章を読んでその論理がどれほど論理的かを判定するマシーンみたいなものが出来たら、多分そいつは僕と同じことを簡単に指摘すると思う。
 いや、「ゆる言語学ラジオ」の特徴を抽出するのは難しいかな。そういう意味で、「ゆる言語学ラジオ」批判の論理的無理は指摘できても、原理的無理のほうは難しいかも。


 ちょっと話がとっ散らかった。
 いずれにせよ、そういう訳だから、僕はここで止まることは出来ない。

 これから僕たちは、より一般的、より抽象的に、この「ゆる言語学ラジオ」批判という現象を眺める。
 そして、いったい何が、「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理だったのかを明らかにする。


付記:「ゆる言語学ラジオ」批判の原理的無理の原理的無理

 と、これまで述べてきたのだが、実は僕はちょっとずるいことをした。

 実は「ゆる言語学ラジオ」批判者は、この批判という営みにも慎重な方で、自らの営みを「批判」だと断固として主張しているのでは全くない。(僕がミスリーディングな書き方をした。「ゆる言語学ラジオ」批判者という言葉すら、僕が作った。)

 むしろ彼は、「ゆる言語学ラジオ」に倣って「ゆる批判」という概念を開発し、この「ゆる批判」という言葉を好んで使っている。
 僕が紹介した記事などは、この「ゆる批判」の実践として考えられている。

 彼が「ゆる批判」という名前で考えているのは、「ゆる言語学ラジオ」の内容面に対する「ゆる批判」である。
 つまり、「ゆる言語学ラジオ」のこの表現が適切でないとか、「ゆる言語学ラジオ」のこの論旨は正確でないとか、とにかく「ゆる言語学ラジオ」の内容に対する批判である。

 要するにそれは、学術の世界における「批判」の「ゆる」ヴァージョンである。

 そういう訳だから、僕がごさんを「ゆる言語学ラジオ」批判者と呼んでみたり、彼が自身の営みを「批判」と呼んでいるんだと言ってみたり、その「批判」は実は批判としては失敗していると考察してみたりしても、無意味と言えば無意味である。
 彼自身は、自分の営みを「ゆる批判」と呼んでいるのだから、それを勝手に批判と呼びかえ、批判として考え、批判として自分で批判しているのだから。

 そういう意味では、僕による批判こそ、批判として二流以下である。
(実は、こういう自己批判があったから、この記事を公開するのにはかなり躊躇った)


 しかしいずれにせよ、ごさんの一連の記事が「ゆる言語学ラジオ」への批判として見なされていることは確かだ。
 彼自身も『批判は悪いことではない』という章を設けて自己弁護しているようだから、自身が「ゆる言語学ラジオ」を批判する人として見られることを内面化しているとも見える。

 そこで本記事では便宜的に、彼を批判者として定位したうえで、僕が批判した(こういうのは普通最初に書くべきだ)

 いずれにせよ、彼の「批判」が最終的にお願いに到達してしまったという不思議な現象に対する説明と、彼の「批判」が「ゆる言語学ラジオ」自体に対する理解を欠いているのではないかという指摘を与えることが、僕の主張の主眼である。



「知識を伝える」とは、どういうことなのか

 さて、少し遠回りしすぎた。

 予告通りここからは、即物的な分析から一歩抜け出して、抽象的な概念の世界を旅する文章を書いてみたい。

 ただあらかじめ申し上げておくが、ここからの話は、僕の本当に漠然とした考えを、「ゆる言語学ラジオ」批判現象をきっかけとして言語化するものである。
 僕の思想を述べることが主眼だから、そういう意味では反証可能性がない。僕の思想に対して良い悪いの評価を下すことは出来るけれども、それだけと言えばそれだけである。

 それでも思想を言語化することには意味があると僕は信じて、以降の文章を書いていく。


「ゆる言語学ラジオ」批判における問題の所在

「ゆる言語学ラジオ」批判を読んでいると、文章の合間からにじみ出てくる、批判者の認識というか、認識図式のようなものを感じ取ることが出来る。

話題が学問的なものであろうとも、それがメディアで取り扱われれば、どうしても「おもしろおかしく」「刺激的な」紹介をされがちである。それはエンタメとしてのある種の仕方なさではある。多少の問題は孕んでいても多くの人に知ってもらうことは、学術的には精確誠実だけれど無味乾燥で誰にも見向きもされないよりは意義があることなのかもしれない。

正解はないけれど…

 この認識は、別に珍しいものではない。
 要するに、学術的な厳密性とエンタメ的なテキトーさを、トレードオフの関係で捉えた上で、後者の追求により前者がないがしろにされることに警鐘をならす主張である。

 まぁ確かに、そういう解釈もできそうだなとは思う。「ゆる言語学ラジオ」は、生成文法の理論を「ふたまたにょきにょき理論」と呼んだりする。
 これは、「ふたまたにょきにょ理論」というエンタメ性(と分かりやすさ)のある言葉によって、「生成文法」という学術用語(とその理論の厳密性)が犠牲にされている例である。
 そういう意味では、この学術とエンタメの排他的な二項対立を採用することは、結論的には可能ではある(何等かの根拠をもって、部分的にそういう結論を引き出すことは出来る)と思う。

 しかしそれは、無批判にこの二項対立を前提してよいことを意味しない。

 学術の厳密性とエンタメのテキトーさを、最初から対立するものとして理解し、しかもその図式で「ゆる言語学ラジオ」を見るということは、本当に妥当なのだろうか。

 ひょっとすると、学術の厳密性とエンタメのテキトーさは、対立するものではなくて、両立(?)するものなのではないだろうか。
 学術の厳密性は、エンタメ的なテキトーさを、一方的に断罪する性質のものでは無いのではないか。


事実として伝えられない知識

 という風に僕が思うのは、そもそも知識の中には、事実として伝えることが出来ないタイプの知識があるのではないかと思うからである。

 ちょっと具体例から考えてみたい。
 普通の意味では、知識は事実として伝えることが出来る。
 例えば、「昨日こんな事件がありました」とか「この人がこう言いました」とか「1+1=2である」とか。
 そういう日常的な知識については、端的に事実として伝えることが出来る。
 ほかにも、「この人のこの記述は間違っている」とか「この表現は適当ではない」などの批判も、基本的には事実として伝えることが出来る知識と言える。

 こういう「事実として伝えられる知識」に対しては、「事実か嘘か」という判断基準を当てるのが適当である。
「昨日こんな事件があった」と言われたとき、それが「事実なのか嘘なのか」と問うことには意味がある。「この人のこの記述が間違っている」という指摘を見たとき、それが「事実に基づいているのか嘘なのか」を考えることは妥当なプロセスと言って良い。

 つまり、「事実として伝えられる知識」は「事実か嘘か」という基準から判断することが妥当であり適当である。
 だから僕は「ゆる言語学ラジオ」批判が、本当に事実に基づいているのかを吟味し、その論理的な無理を指摘することが出来るのだ。


 しかし、全ての知識について、同じことが言えるわけではない。
「事実として伝えられない知識」も存在するからである。

 一つの例として、歴史の知識を習得した時のことを考えてみよう。
 僕たちは、まず小学校で歴史の大雑把な流れを習う。
 この歴史の知識には、相当程度の単純化、誤り、曖昧な記述が含まれる。

 次に中学校で、もう少し解像度が高くなった流れを習う。
 さらに高校で、さらに解像度の高い歴史を勉強する。
 人によっては大学で、もっと解像度の高い歴史を勉強する。
 そして一部の人は大学院で、自分の歴史の解像度をさらに高めることが出来る。

 この学習プロセスは、「事実として伝えられる知識」の積み重ねという性質のものではない。
 むしろこれは、「事実として伝えられないゆえに、物語としてしか伝えられない知識」の、無限の訂正運動ともいうべき学習プロセスである。

 この歴史の知識を例にとって、「事実として伝えられない知識」をもう少し詳しく言語化してみよう。

「事実として伝えられない知識」は、まず最初、テキトーで誤りを多く含む、曖昧な物語として与えられる。
 そして、この物語の細かい箇所を段階的に、無限に訂正していくことで、解像度をより高めていく。
 最後には、無限の訂正運動をした後の「限りなく事実に近い物語」として、ようやくその知識は伝えられることができるのである。

 換言すれば、「事実として伝えられない知識」は、こういう方法でしか伝えていくことが出来ないのだと思う。

 したがって、こういうタイプの知識に「事実か嘘か」という判断基準を持ってくることは、明らかに適当ではない。
 その知識を伝えるということそれ自体のうちに、「嘘(や曖昧さ、そしてテキトーさ等)を含ませる」ということが必然的に含意されているからである。

 では、この「事実として伝えられない知識」の判断基準は、いったい何なのであろうか。

 それは、「この嘘(物語)は、学術的に厳密な事実に訂正され得るかどうか」である。そうとしか言いようがない。


付記:事実として伝えられない知識

 ちょっと話は「ゆる言語学ラジオ」から逸れるが、これに関連して、僕が思うところをつらつら書いておきたい。

 インターネットの一般化によって、陰謀論者と同様に、歴史修正主義者が問題視されるようになった。
 彼らは特定のイデオロギーで歴史的事実を歪曲し(南京大虐殺は無かった! とか)、その間違った知識を拡散する。

 これに対し研究者の先生方は、懇切丁寧に「それは違いますよ」と指摘したり、「間違った知識だ! 勉強しろ!」と怒ったりする。

 それは大事だ。とても大事だとは思うのだ。僕だって、間違った歴史的知識を拡散する人たちを見ていると嫌悪感を抱くし、それを専門家の方が論破しているのを見るとスッキリする。

 けれども、そんなスッキリ感を抱くと同時に、少し気持ちが重たくなるのである。

 なぜか。

 その理由は、僕だって、世界中の歴史について正しい知識を持っている訳がないからだ。全ての歴史的議論に参入できるわけでもないし、全ての歴史学的概念(あと歴史哲学的概念)をちゃんと理解している訳でもない。
「間違った知識を持つことそれ自体がダメなんだ」と言われると、果たして、僕と歴史修正主義者との距離はどれほど離れているだろうか、と思う。

 場合によっては、「中世に魔女狩りがあったと思うのは有害な勘違いだ」とか「社団国家論も知らないのに国民国家について語るとデマでしかない」とか言われると、正直うんざりするのである。(内輪の話でごめんなさい)

 要するに、学術的に正確な理解を持ってない者を、潜在的な歴史修正主義者として一律に断罪しようとする流行と、ちょっと距離を置きたくなるのである。

 そうして距離を置いて考えると、こんなことを思う時がある。

 そもそも、彼らの問題設定は妥当なのだろうか。
 つまり、学術的に間違った知識や理解を持っていることそれ自体が問題なのか。

 いや、学術的には間違った知識を持って、それが正しいと思ってしまうのは、人間として至極当然のことではないのか。
 むしろ、本当に問題なのは、「学術的には間違った知識を正しいと思い込んでいる」ことではなくて、「その間違いが、学術的に厳密な事実に訂正されえない」ことではないのか。

 などと、僕は普段から思っている。

 間違いや曖昧性それ自体を問題視するのではなく、その間違いや曖昧性の訂正可能性が無いことを問題視する。
「南京大虐殺は無かった」という言論それ自体を問題視するのではなく、その物語(嘘)が、アカデミックな議論に「訂正されえない」ことを問題視する。

 僕は、こういう態度が、実は大事なのではないかと思うのである。
 こう思うと、僕は自分の知識の「訂正可能性」を受け入れることで、歴史修正主義者から距離を取ることが出来る。
 そして、研究者の先生方による懲罰的で一方的で、おおよそ日常感覚から遊離した断罪から、距離を取ることが出来るのである。


(そんなこと、本当に研究者の先生がしているのかと思われるかもしれない。
 しかし、こういう事例は実在する。

 とある研究者の先生が『チ。地球の運動について』というフィクションにおけるキリスト教描写について、Twitterで激怒していたのは記憶に新しい。
 ただのフィクションに対して、どうして学術的な厳密性を求めるのか。正直僕はそのツイートを見た際、ため息しか出なかった。

 ただし、今インターネットで検索しても当該情報が見つけられなかった。参照元を示せなくてごめん)


「ゆる言語学ラジオ」と事実として伝えられない知識

 さて、僕は前項で、知識を「事実として伝えられる知識」と「事実として伝えられない知識」とに分けた。
 一応付け足しておけば、別に知識一般は、この二分法でのみ語られるものではない。

 まず第一に、そもそも「どのように伝えられるか」という観点から知識を分類することそれ自体が、あくまでも一つの見方である。
 そして第二に、「どのように伝えられるか」という観点から知識を分類するとしても、上記の二つ以外に、たとえば「本人に体験してもらうことで、はじめて伝わる知識」とかもあると思う。

 しかしとりあえずの補助線として、僕は知識を「事実として伝えられる知識」と「事実として伝えられない知識」に分けておいた。
 そしてそれぞれの判断基準として、「事実か嘘か」と「その嘘は、厳密な事実に訂正され得るかどうか」を、それぞれ提示した。

 では、「ゆる言語学ラジオ」が扱い、批判者によって批判されたものは、どのような性質の知識だったのだろうか。

 少なくとも、批判者によって「テキトー」だと批判されていたのは、後者に分類されるのではないかと想像する。
「想像する」と書いたのは、僕は別に言語学研究者でもその卵でもないため、彼らが紹介する諸理論や諸事例が、どういう知識であるのかを推定することが出来ないからである。
 その理由のほかにも、批判者が具体的な問題を、あまり積極的に取り上げていないという事情もある。

 しかし一般的に言って、学術的な理論を理解させようと試みる際に、事実として伝えられる知識を一つ一つ伝えて、厳密な理解に到達させようとはしない。(歴史を教える際に、古代史の小さな小さな事象を淡々と一つずつ教えたりしない)
 むしろ、「まずはこういう理解をしてください」と大雑把なあらすじを提示し、それを少しずつ厳密な議論に、訂正し続けていく方法が採られるように思う。(自分の専門を一般化しすぎか?)

 僕は「ゆる言語学ラジオ」が伝える知識も、やはりこういうタイプの知識、すなわち「事実として伝えられない」タイプの知識だと推定する。
 どうしてそう思うのか。一般的にそうだと思うから、という以外にも実は理由がある。

「ゆる言語学ラジオ」は、『言語学者2人が本気で論文紹介する回【ガチ言語学ラジオ】』という回で、興味深い実践をしている。


 この回は、言語学者の先生お二人をお呼びして、論文を紹介してもらおうという趣旨で撮られたものである。
 しかしその方法が面白くて、まずは「ガチ勢向け」、次に「ちょっとわかる人向け」、最後に「全然わからない人向け」という、三段階の説明が提供されるのである。

 この説明を段階に分ける試みは、僕が「事実として伝えられない」知識の学習プロセスとして提示したものを思い出させる。

 もっとも、その学習の順番は真逆だ。
 僕は「全然わからない人向け」、「ちょっとわかる人向け」、「ガチ勢向け」の順番で説明されるのが、学習プロセスとしては自然だと書いた。
 一方「ゆる言語学ラジオ」は、「ガチ勢向け」「ちょっとわかる人向け」「全然わからない人向け」の順番で説明している。

 しかし、学術的な説明を、
「厳密なもの」
「それよりは易しいけど曖昧なもの」
「さらにそれよりは易しいけど、さらに曖昧なもの」
「さらにそれよりは…(以下同じ)」
とに分けていき、必要な人に必要なレベルの説明を与えるという趣旨は、ほとんど僕の主張と呼応している。

 すなわち、知識を「事実として」伝えようとするのではなく、「あとでより厳密なものに訂正される物語(のうちの一つ)として」伝えようとする点で、この動画は僕の主張を補強している。


 さて、以上で僕は、「ゆる言語学ラジオ」はある程度まで、「事実として伝えられない知識」を伝えているのではないかと仮定した(断言してないことに注意)。

 そして「事実として伝えられない知識」は、その本性上、単なる厳密な事実の積み重ねとして伝えることは出来ない(そもそも僕が、「事実として伝えられない知識」をそう定義した)。
 むしろ、「事実として伝えられない知識」は、「嘘や曖昧性を含む、分かりやすい物語」として提示され、それが無限に訂正されていくことでしか伝えることが出来ない。

 ゆえに「事実として伝えられない知識」が学ばれようとする際、それは、その知識自身が「嘘や曖昧性を含む物語」に変換されることを、自ら要求するのである。
 それを学問的な潔癖さで拒絶するというのは、「事実として伝えられない知識」を伝えること自体を拒否する(失敗する)ということを意味する(批判者が紹介する
国立国語研究所のサブスクライバーの規模を思い出してほしい)。

 むろん、そんな数字で学問的価値や教育的価値を測ろうとするのではない。
 しかし、現に多くの人が「ゆる言語学ラジオ」で知識欲を満たしている(満たそうとしている)ことの意味を、もう一度考えてみてほしいのである。

 彼ら「ゆる言語学ラジオ」は、「事実として伝えられない知識」を「嘘で曖昧で魅力的な物語」に変換する。
 これは「事実として伝えられない知識」の性質上、全く自然(当然)なプロセスと言うほかなく、それを「嘘だから」「曖昧だから」と批判するのは、全く妥当しない。


「ゆる言語学ラジオ」と事実として伝えられない知識とエンタメ性

 ところで、こういうタイプの知識を学ぶということは、長期間同じ物語に向き合い、自分の理解を訂正していくという、ある種の我慢強さを要求する。

 自分の知識や理解を常に「曖昧なもの」として定位し続け、その訂正可能性を容認し続けなければならないのである。
 この学習プロセスは端的に言って面倒くさく、途中で挫折してしまいやすい類のものだと思う(何度僕が、哲学書の理解を諦めたか)。

 そのため、「無限の訂正運動」としての長い長い学習プロセスを耐え抜くために、適度に「おふざけ」などの息抜き的面白さ(そんな言葉あるのか?)を入れるのは全く適当であり、自然ですらある。


 この「息抜き的面白さ」が「ゆる言語学ラジオ」における「エンタメ性」の正体であって、これは学術的厳密性を汚すものでは全くない。
 むしろ、「学術的厳密性」のある「知識」に至るために必要不可欠なものである。「事実として伝えられない知識」が、自身が学ばれるために、自ら要求するものである。

 この性質を無視して「ゆる言語学ラジオ」を「おふざけ」として批判するのは、学術的潔癖を追求しすぎるあまり人間を無視するディストピア的理想論(?)である。


結論:「知識を伝える」とは、どういうことか

 以上、僕は「ゆる言語学ラジオ」を、「事実として伝えられない知識」を提供する場合があるコンテンツと仮定した上で、自分の青臭い思想を言語化してきた。

 この観点から見ると、「ゆる言語学ラジオ」を「テキトーで曖昧な知識」を拡散する「おふざけ」コンテンツであると批判するのは、妥当とは言えない。
 というか、その「テキトーで曖昧な知識」や「おふざけ」それ自体を問題視するのは、妥当な問題意識の持ち方ではない。

 なぜなら、「事実として伝えられない知識」が、「テキトーで曖昧な知識」に変換されることや「おふざけ」に晒されることは、「事実として伝えられない知識」それ自体が内包している性質だからである。
 にも関わらず「事実として伝えられない知識」を「事実として伝えよ」と要請するのは、的外れな要求と言うほかない。
「事実として伝えよ」と要請することが出来るのは、「事実として伝えられる知識」に対してであって「事実として伝えられない知識」に対してではないからだ。


 ここまでの議論によって、僕はついに(遅すぎる)「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理を指摘することが出来た。
 今一度言語化してみよう。

 批判者は、「事実として伝えられない知識」に対して「事実として伝えられる知識」の判断基準を無根拠に適応している。

「彼の提供する物語が、厳密な事実に訂正され得るかどうか」という視点で眺めるべき「ゆる言語学ラジオ」を、「彼の提供する知識が、厳密な事実かどうか」という視点で眺めているのである。
「理解の訂正可能性」を重視すべき場で、「事実の立証可能性」(あるいは「事実の反証可能性」)を第一に考えているのである。

 これこそ「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理であって、僕が本稿で主張したかった点である。

 ところで僕は、本稿の冒頭で、「ゆる言語学ラジオ」批判の問題意識を次のように要約した。

要するに、学術的な厳密性とエンタメ的な曖昧性を、トレードオフの関係で捉えた上で、エンタメ性を追求し学術性を犠牲にする問題として、この「ゆる言語学ラジオ」騒動は捉えられたと言って良いと思う。

「ゆる言語学ラジオ」批判

 この排他的な二分法は、果たして適切だったのか。

 否だ。

「事実として伝えられない知識」を伝えるにあたって、エンタメ的な曖昧性は学術的な厳密性を棄損するものでは無い。
 むしろ「事実として伝えられない知識」を伝えるために、「事実として伝えられない知識」自身が自分の付属品として求めるものである。

 したがって「学術的厳密性vsエンタメ的曖昧性」などと、対立的に理解するのは妥当とは言えない。
 むしろ、「学術的厳密性に至るための前段階としてのエンタメ的曖昧性」と、一元的に捉えるのが自然である。


付記:批判は悪いことじゃない、けど……

 ところで批判者は、自らの「批判」を自己弁護するように、次のように述べている。

そもそも「批判」という言葉にネガティブなイメージがついてしまっているのが問題でもある。先日「批判でなく提案を」という政治家のポスターが目に入ったが、それもそういったイメージの反映だろう。日常的な語彙としてはそうかもしれないが、少なくとも学問の場においては、よりよいものにしていくために批判はなくてはならないものだし、研究とはいわば先行研究への批判の集積ともいえる(本当か?)。

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

 彼の議論それ自体は全くその通りであって、学術的営みに批判は欠かすことが出来ない。
 もっとも、「ゆる言語学ラジオ」にどれだけ学術的規範や学問の原理を適用してよいかは疑問ではあるが。

 いずれにせよ、確かに「批判」という言葉にはどこかネガティブなイメージがつきまわっており、それがある種のコミュニケーションを妨害しているのは間違いないと思う。

 しかし僕らが問うべきは、どうして「批判」は「ゆる言語学ラジオ」批判において悪いイメージを持つのか、であろう。

 この現象を考えるとき、僕らは先述の「事実として伝えられる知識」と「事実として伝えられない知識」という観点から、一つの仮説を提出することが出来る。

 僕は前項で、「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理を指摘した。
 それは、「事実として伝えられない知識」を伝える営みに、「事実として伝えられる知識」の規範を無根拠に適用している、という趣旨のものだった。
 つまり彼は、「事実か嘘か」という判断基準から「事実として伝えられない知識」を伝えようとするメディアを断罪しているのであって、言わば目の前にある現実にあてる物差しを間違えているのである。


 ここに、一つの不均衡が生じる。


 つまり彼の判断基準である「事実か嘘か」は、彼が理想とする学術的批判には妥当する。
 一方で、「ゆる言語学ラジオ」というメディアには妥当しない。

 にもかかわらず、彼は「事実か嘘か」という判断基準を、学術的に妥当なものだからという理由だけで、「その嘘は厳密な事実に訂正され得るか」で判断されるべき「ゆる言語学ラジオ」に滑り込ませるのである。

 批判をするのは良い。望ましいことではあるのだ。

 しかし「ゆる言語学ラジオ」を批判する際の判断基準は、「事実か嘘か」ではなくて、「その嘘は厳密な事実に訂正され得るか」という観点から行うべきものであることは何度も指摘した通りである。

 つまり批判者は、自らの批判の基準(根拠)がズレていることに無自覚なまま、批判は一般に望ましいという規範のみを根拠にして、ズレた批判を一方的に投げかけている。
 批判それ自体がズレているにも関わらず、極めて一般的な規範を持ち出して自身のズレから目を逸らし、そのズレた問題意識からズレた規範を「ゆる言語学ラジオ」に「望む」。

 ここに不均衡がある。まぁ端的に言って、分割の誤謬の亜種である。

 僕は、これが「ゆる言語学ラジオ」批判にネガティブなイメージがついた理由の一つだと思う。


まとめ:「ゆる言語学ラジオ」批判の無理

 以上、僕らは(信じられないほど冗長な議論の末に)、「ゆる言語学ラジオ」批判の無理を指摘してきた。

 僕らの議論によれば、「ゆる言語学ラジオ」批判には三つの無理がある。
 論理的無理、原理的無理、根本的無理である。
 それぞれを並べてみよう。

 批判者は、特定の文脈における規範意識や問題意識を、全く別の文脈に対して、根拠も吟味もなく適用している。(論理的無理)

 批判者は、「ゆる言語学ラジオ」という現象を理解する言葉も理論を持たないまま、自身の理想を一方的に投影し、その理想を叶えてもらおうという『お願い』を『批判』に格上げしている。(原理的無理)

 批判者は、「事実として伝えられない知識」に対して「事実として伝えられる知識」の判断基準を無根拠に適用している。(根本的無理)


 この三つを並べてみれば、「ゆる言語学ラジオ」批判者に見られる、法則性を指摘することは容易である。

 彼は、現象をそれ自体として見ようとしない。
 彼は現象を見る前に自らの理想や規範を暴走させ、そして自ら認知を歪める。
 そして目の前の現象に当てるべき物差しを間違え続ける。
 さらにその暴走に自覚的でなく、自らを省みることもない。

 現象を理解する際に、すでに別文脈での規範意識や問題意識が滑り込んでいる。
 それゆえに彼は、現象を捉えることに失敗したままで、議論を進めてしまう。

 批評的感性の抜け落ちた批判的営み。
 哲学的基礎に支えられていない学問的規範。

 これこそ「ゆる言語学ラジオ」批判の正体であって、本稿はこれを言語化したものである。


今後の課題

 さて、ここまで僕は、「ゆる言語学ラジオ」と「ゆる言語学ラジオ」批判という現象を整理してきた。
 そして、「事実として伝えられない知識」に対して「事実として伝えられる知識」の判断基準を無根拠に適応しているという観点を提示し、本論を終了した。

 しかし、ここで終わることは出来ない。
 次に問われるべきは以下の問いであろう。

 ではなぜ、「事実として伝えられない知識」に対して「事実として伝えられる知識」の判断基準を無根拠に適応するなどという現象が、起きてしまったのか。

 実はこの問いこそ、僕が本稿で問いたかったことなのである。
 この問いによって僕は、「ゆる言語学ラジオ」批判を、インターネット文化史(?)における一つの象徴的な出来事として位置付けてみたかったのである。
 というのも、『付記:事実として伝えられない知識』において、僕は一つの問題意識を仄めかした。
 要するにそれは、twitter上では、『理解の訂正可能性』よりも『事実の立証可能性』が不当に重視されてしまっているのでは、という問題意識だった。
 僕が提起したかったのは、現代では極めて一般的になってしまった、この現象に対する問いだったのである。

 しかし、ここまでで文字数は30000文字を大きく超えた。僕の体力やモチベーションも死に絶える寸前まで減退した。

 そこでこの問いは、今後の課題として、いったん保留にしておきたい。

 また暇なときに、記事を書けたら書こうと思う(書かないのでは)。




 最後に、(ここまで読んでくれた人なんていなさそうだけど)参考文献代わりとして、「ゆる言語学ラジオ」と「ゆる言語学ラジオ」批判を掲載しておきます。
 改めてこれらを眺めてみれば、僕の提示した見方で、すっきり理解できるものと信じます。

 それでは、またいつか。




追記:2023/07/23

修正の報告:記事内の誤字脱字を訂正しました。

訂正の報告:記事内で僕は、「ゆる言語学ラジオ」批判者のごさんが「学術的厳密性」と「エンタメ性」を排反するものとして認識していると書きました。
 しかし、少なくとも現在では、その認識は持たれていないようです。お詫びして訂正いたします。


あとがき:公開当初は、特に誰に読まれることを想定していたわけではないのですが、さっそくごさんに(こんなに冗長とした文章を)読んでいただき話題にもしていただいたようです。光栄でもあり、自分の無知を晒しているようでお恥ずかしくも思います。

 最初にリアクションをくれたのもごさんで、ご自身への批判に大変真摯な方なのだと思います。Twitterでも僕の議論(こんなに長いのに)から適切にポイントを抜き出されており、学術的訓練を積んだ方の姿勢には頭が上がらないなと痛感しました。

 さて、様々な方からご反応をいただいて(はてなブログを今でも使っておられる方っていらっしゃったのですね)、自分の批判についてもう一度考えたのですが、つまるところこの批判は、立場の違いから生まれたのかなと思います。
 あくまで第三者として「ゆる言語学ラジオ」と「ゆる言語学ラジオ」批判を歴史的現象として客観的に位置づけようとする僕(それは失敗したのですが)と、一人の当事者として「ゆる言語学ラジオ」に実践的に関わっていかれようとするごさんの立場的な違いが、僕による批判を現象させたように思います。

 そして、その僕による批判が本当に「ゆる批判」に妥当するのか、今でも自信がありません。本稿でも書いた通りですが、批判の水準を「ゆる批判」に求めるということそれ自体が、僕が本稿で「論理的無理」として指摘したことなのではないかと思うばかりです。
 すなわち、批判という文脈では妥当する規範意識を「ゆる批判」という別の文脈に対して、不当に適応しているのではないかとも思うのです。そういう意味では、僕が求めた「規範的な批判」は、「ゆる批判」に求められるべきものではないかもしれない。

 しかしいずれにせよ(自己弁護的ですが)、僕がしたような「ゆる言語学ラジオとは何か」という基礎的論考を踏まえることが、「ゆる言語学ラジオ」に関係する言説にとって有意義になり得るだろうという点は、固く信じるところです。
 もちろん、その際の「ゆる言語学ラジオとは何か」論それ自体に対するご指摘ご批判は大歓迎です。僕の間違いを、ぜひ正して頂きたく思います。
 あるいは、僕が提示した「ゆる言語学ラジオとは何か」論を使っていただけるならば、これ以上の光栄はありません。

 これからも、「ゆる言語学ラジオ」及び「ゆる批判」が、健全な仕方で相互に発展し、相補うコンテンツとして成長することを心から願っています。
 
 それでは、またいつか。