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ゆる自己批判の試み

それで、いったいぼくは何を言っているのか、再吟味しなければならないように、ぼくには思えるのだ。なぜなら、自分が自分によってだまされるということは、何よりも危険なことだからねぇ。

プラトーン『クラテュロス』428D, 水地訳

自己批判はゆるくない方がいいかもしれない。

先日公開したこちらの記事、「ゆる言語学ラジオ」公式アカウントにも言及されたことで、大変多くの方に読んでいただき、いろいろな反応を頂いている。やっぱり「ゆる言語学ラジオ」の影響力すごい。

褒めていただけるのはもちろん素直にうれしいのだが、批判的、ネガティブな意見でもそれが参考になるものであればやはりありがたいものである。noteのコメント欄が使えれば一番いいのかもしれないけど、有料コンテンツっぽいので、各自勝手に批判していただいて自分から余裕があるときに拾いに行くスタンスでよいかな、と思っている。直接Twitterでリプライをもらえるのはそれはそれで助かるけれど、私の運用方針が無理してすべてに対応しないという感じなので積極的に頼むのは気が引ける(無反応でも気にしない方はどうぞ)。

当初の想定では、周りの言語学関係の人々に読んでもらって、私の主張でおかしいところがあれば、適宜修正していけばよいかな、という気持ちで公開したのだけど、あっという間に広まって本人にも届いてしまったので、今からの大幅な改変はかえって問題になるだろうから、よほどの問題が発覚しない限りは細かい修正に留めて、当該記事の反省点や批判に対する応答をこの記事にまとめておこうと思う。この記事は前の記事に対する批判や、再批判、自己批判・反省等でつど内容が変わる可能性がある。


第一ゆる自己批判

すでに長くなるきざしが見えてきているけれど…

長い

自分でも長い自覚はあったのだけれど、あまりにも「長い」「長すぎる」「最後まで読める気がしない」と言われすぎて、自分でも可笑しくなってきてしまった。「熱量」という言葉を使って好意的に評価してくれる人もいたが、単に短くまとめるのが下手なだけだと思う。(長すぎる文章に対して使う言い換えワードとして便利かもしれない;そもそもそういう皮肉で言われているのかもしれない)

実は草稿の段階では、もっと長くなってしまっていて、「ゆる言語学ラジオ」に対する私の周りの言語学関連の人々の反応だとか、なんで自分のような人間が代表面してこんな記事を書くのか、みたいな話をうだうだ書いていたのだけど、言い訳がましくなってきたのでごそっと削った(この章の下の方で「批判記事を書いた理由補遺」として改めて書き直した)。「指摘事項」についても、自分の知識不足でうまく書けないところは全部捨てた。批判するならここでしょう、という指摘がもらえたらそのつど追加する気でいた。

「ゆる言語学ラジオ」の視聴者なら長大なコンテンツに慣れてるでしょ、という思いもあるが、読むと聞くとでは別の話というのもその通り。

分かりにくい

これは前の話にもつながるけれど、当該記事は当初からあの形を目指していたわけではなくて、構成が二転三転したので、無理やりあの形にまとめたというところがあり、そのひずみが残ってしまっていると思う。

言い訳をすれば(全部言い訳とも言えるが)、当該記事の執筆のひとつの動機というかきっかけは、水野さんと監修の先生たちが「ゆる言語学ラジオ」名義で「言語学フェス」にて発表するというのを知ったことで、せめてその前週くらいまでに思うところをまとめておくか、と書き始めたものなので、そういう意味で時間の制約があった(今でも「けつかっちん」って使われているんだろうか)。時間をかければ、もっとわかりやすい構成にできたかもしれない、とは思うけれど、あまり変わらなかったかもしれないし、そもそもお蔵入りになっていたかもしれない。ラジオの収録と同じで「えいや」という勢いは大事。

不適切な表現

他人の言葉遣いについて批判しておきながら、一部の表現が乱暴、きつい、攻撃的などの指摘を受けた。これらは後で修正するかもしれない。

構成が二転三転したと書いたけど、一番最初は「ゆる言語学ラジオ」のノリで「ゆる言語学ラジオ」を批判的に扱う、みたいな方針だった。これは、(一部のリスナーには受けたかもしれないけれど)読む人によっては不快でしかないだろうし、そもそも私にうまく扱えるスタイルではなかったので、早々に切り替えた。その際、煽るような表現はできるだけ差し替えたつもりだけど、基準が「ゆる」くなっていたかもしれない。

そのあと反動で、厳密な批判をする方針に切り替えたものの、ある程度批判内容を整理した段階で「これ全部調べてたらいつまで経っても書き終わらないなぁ」と思い始めたところで「ゆる批判」概念を思いつき、それを埋め込む形で再構成したというのが大まかな流れである。

求めすぎ

批判や提案という形でいろいろ並べてあるのだけれど、「それを全部求めるのは酷」、「エンタメ部分を求めているのでそれを犠牲にしてほしくない」という反応もあった。

これに関しては、私は自分が上げた項目をすべてクリアしないと発信する資格がないと主張したいわけではない。イメージとしては:すべての専門家が文句なしと判断する基準を100点とすると、その基準は現実的ではないから90点を目指しましょう。その結果、60点のコンテンツができたら及第点です。とはいえ、その90点の目安がないと目指しようがないから、ひとまずこのあたりを意識してはどうでしょうか。という感じである。その際、何を選ぶかは本人の自由だし、「ゆる言語学ラジオ」ができないというのであれば、他の発信者に参考にしてもらえれば十分である。そういう意味をこめての「望むこと、あるいは望まないこと」である。

バランスの問題ではあるけれど、「正確性を犠牲にしないと言語学はゆるく楽しく語れない」とは思わない。もちろん、それが簡単だとも思わないし、お前にできるのかと言われれば自信はないけれど、正確性を犠牲にしなくても面白い話ができると言うのはゲストや監修の先生方が十分証明してくださっていると思う。そのレベルと比べるのもそれはそれで酷かもしれないけれど、そこが水野さんたちの腕の見せ所だし、むしろ水野さんにそれができないと思っているのならそのことの方が失礼な気もしている。

難癖

「批判ではなく好みでしかない」「難癖(特に「蘊蓄」「エウレーカ」周り)」という指摘もあった。言語学のどの立場にたって何を重視するか、というのも究極的には好みの問題なのでは?という気もするが、ただ「学術的な批判」と「私の好み」と「脱線」を明確にわけたほうがよかったというのは反省点。(「脱線」は「ゆる言語学ラジオ」ノリで書いていた時の名残)

「えぐい」については、これも「そんな言葉を使ってはいけない!」というのではなくて、私でもひっかかるのだから、私より上の世代の人は猶更だろうし、引用した文献の著者が見ているかもしれないのだから、余計な誤解を生むリスクは避けた方がいいのではないか、くらいのものである。また、これは水野さん本人が「慣用句が本来の意味とはずれた用法で使われているのが気になる」旨を発言していたことへのあてつけでもある。

「蘊蓄」については、私も似たような使い方をしているので、そもそも批判たりえないのだけれど、辞書の通読を倣いとしている水野さんだからこそ「蘊蓄」という語についても辞書で引き比べてほしい、くらいの言及である。

日本語では(そして多くの西欧語でも)「エウレーカ」という形で定着しているけれど、本来は「ヘウレーカ」だった、ということ自体が「(ズレた意味での?)蘊蓄」として楽しめないだろうか、とも思うけど、それも人によるし、「難癖」だと感じた人が「ゆる言語学ラジオ」のリスナーとも限らない。そもそも「正しさを押し付けている」ように取られる書き方をしたのがよくなかった。

単に世代差を感じる表現として「バッキバキ」「ガバガバ」「~しないがち」「~するくない?」など、もちろん意図的に使っているものもあるだろうけれど、意外と使っている本人たちは新しいことに気づいてないこともあるよね、という点でそれだけで言語学的におもしろい話題になると思う。

「母語話者なのに?」についても別に番組内、コミュニティ内で使うことをそこまで問題視してはいない。ある意味で「ゆる言語学」らしいのかもしれないと思っているのは記事にも書いた通り。ただ、コミュニティ外で使う人がいるわけないというのはやや楽観的だと思う。例えば、「ゆる言語学ラジオ」で水野さんが堀元さんに対して投げかけた問をきいて、家族や友達に同じ質問をした上で「母語話者なのにわからないの?」という人がいても全然不思議ではないと思う。それもそこまで問題ではないと思われるかもしれないけれど、問題になるシチュエーションというのは存在するし、どういう時に問題になるのか、というのは言語学側からはっきり示しておくべきように思う。

「学術的な批判」はより厳密に、しっかり論拠を明確にして、というのはもっともな指摘。それが無理だなと判断したから「ゆる批判」という名目にしているわけだけれど、言い訳と言われれば否定はできない。

「自らの正しさを確信した上から目線」というコメントもあった。アカデミアに一度でも身を置いたことのある人なら「自らの正しさ」なんてそうそう確信できないんじゃないかとも思うけれど(たまにそういう先生もいらっしゃるのは確か)、批判記事という体裁上あまり予防線を張りまくっても主張がわかりづらくなるので、多少強く言っているところはある。言語学全体に対しての知識の総量なら水野さんより多いという自負もある(ただ私の興味も偏っているので水野さんに負ける分野も当然あると思う)。とはいえ、批判というのは基本的に対等な立場でしか成り立たないとも思う。「偉そう」ということはたびたび指摘されるので、私の文体の問題なのかもしれないけれど、なかなか自覚的に改善できない。

具体例がない

「具体例がない/少ないからわかりづらい」という指摘もあった。別の記事にまとめたのを読んでもらえていないのか、読んだうえで少ない、足りないという判断なのか。(ちなみに現時点での閲覧数は10:1くらいのバランスで、ゆる批判実践記事はそれほど読まれていない。こっちの方がおもしろいと思うのに)

具体的な批判は(時間が無限にあって且つ)やろうと思えばいくらでもできただろうけれど、該当の動画の該当の箇所を見つけ出し、それに対して厳密な考証をする、というのは時間がかかりすぎて現実的でないと判断したのは上述の通り。今まで個別の批判をしてこなかったことについては別途触れる。

すでに「ゆる批判」と言い訳しているので、具体例の言及も批判も、ゆるくてもないよりはあった方がよかったという意見もあるかもしれない。まあ、それはそれでやっぱり批判はされていたと思うけれど。

しかし、言語学における議論を思い返してみると、例文のない議論というのはそもそも話にならないので、適切な具体例を適切な場所で用意できないというのは言語学徒としても多いに反省すべきかもしれない。

一方で、今回の記事にも何度か「比喩」で説明している箇所があるけれど、果たしてこの「比喩」も適切であるか、はなはだ疑わしい。理解していない人間が分かった気にさせるためだけの比喩は、結果的に何も益するところがないので、「ゆる言語学ラジオ」にも他山の石としてほしい。

お金は関係ない

「お金をもらっているのだから責任を」ということを書いたが、「お金をもらっていなかったらテキトーなことを言ってもよいということにならない」「エンタメにお金を払っている人もいるわけで、正確性の担保は必ずしも含まれないのでは」といった意見もあった。言われてみるとそうかもしれない。

YouTubeやPodcastの収益の仕組みや「ゆる言語学ラジオ」内での利益の分配などについて全然わかっていないので、そもそもどう表現するのが適切なのかもわからないということもあって、まどろっこしい言い方になってしまったという問題もあるのだけれど、平たく言えば「お金をもらっているならそれはプロ」「プロなら自分の言葉には責任をもて」ということで、これくらいの解像度であれば、そこまでおかしくない気もするがどうだろう。

「責任」って具体的になんだ。という指摘もあった。なんだろう。とりあえず、「批判されてもしかたない」「批判に応答義務がある」ということは言えそうだけれど、それならもうある程度はできているのかしら。「ゆる言語学ラジオ」に普段から批判があるのかはわからないけれど。でも、CMでも俳優が不祥事を起こしたら解約とか賠償とかいう話もあるし、広告案件動画で不適当な発言をしたらやっぱり問題ではある。が、それはお前が口を出すことではない、と言われればそうかもしれない。ぐるぐる。

そういえば、直接関係ないけど、「課金が求められる部分以外は読んだ」「無料部分だけ読んだ」というコメントがちらほらあり、まあ、払っていないなら別にいいのだけど、私の記事は基本的に投げ銭方式(全文無料公開で支払いは任意)でやっているので、「続きがあると思って払ったら何もなかった」という人がいたら申し訳ないな。その旨、支払が発生する前にわかるよね?

漫画の引用

記事内で2か所『トクサツガガガ』からの引用があるのだけれど、著作権的に問題があるのでは、という指摘を受けた。学術書とか論文でも漫画からの部分的な引用というのは見かけるので、この規模であれば問題ないという認識だったけれど、この記事を「学術目的」というのは難しい気もするし、不適切であれば消した方がいいかもしれない。さくっと消してしまおうかとも思ったけど、この「正解の所在」というサブタイトルを前の記事と本文とにからめているのでちょっと悩んでいる。不誠実な態度かもしれない。詳しい方に教えてほしい。

批判記事を書いた理由補遺

上でも、簡単に言及したけれど、最終的にけずってしまったので、ここで改めて簡単に書き留めておく。

先の記事の最初にも出しているけれど、「ゆる言語学ラジオ」との付き合いはこの記事(に書かれているやりとり)から始まっている。

この記事の冒頭に「批判記事ではない」と書いたけれど、実際「素人が発信することに対する専門家のかかわり方」と「専門家と言い切れない自分のような立場の人間のふるまい」みたいなことは、ぞれ以前からずっと考えているテーマだった。

そこに「ゆる言語学ラジオ」が出てきた。今から振り返ってみれば、まだまだ駆け出しと言えるけれど、当時は急速に成長しているし、このまま放っておくのはまずいかもしれない、という危機感はあった。結果的には、真摯な対応を見せていたし、いたずらにことを大きくするのも大人げないので「批判でないよ」という言い訳をつけて、普段から考えていることをまとめてみた。という体である。

あえて名前をあげていないけど、問題があると思うコンテンツは他にもたくさんあったし、今もあるけれど、ことさらに「ゆる言語学ラジオ」の名前をあげたのは、「直接的なやりとりが発生した」「誠実な対応があった」「それなりに影響力がある」など複合的な理由による。

その後も見続けていたのは、記事にも書いた通り、紹介してしまったしな、という後ろめたさもあったし、またテキトーなことを言い出さないかなという不安もあったし、単純に言語に関する話題が気になるというのもあった。私の一視聴者としての感想も記事に書いた通りで、参考書籍の選定は手堅くなったが、質の向上はゆるやか、というのが正直なところではある。ただ、これは急激に上がるわけではないのも当たり前なので、しょうがない。

個別の動画に批判してこなかった、直接批判してこなかった、というのにも複合的な理由がある。

先の「批判ではない」記事は、逆に言えば、今後問題があれば批判するよという意思表示でもあったし、実際その直後に出た動画では、私の認識からあまりにもかけ離れている内容が語られたので、批判・訂正記事を書いた方がいいかもしれないと思い、自分でもいろいろ本を読み返したりした。とはいえ、実際読み返してみると、それだけで時間がかかるし、それをまとめるとなるとやっぱり膨大な時間がかかる。私も普段は全然言語学もプラトーンも関係ない仕事をしている(辞めたい)ので、隙間隙間で調べものをしていると、調べ始めのころに読んだことは忘れるし、その間にも自分の勉強もしたいしで、ひとつの批判記事をまとめあげるのに数か月かかってしまう。その頃には、問題のある動画が倍増している。というので、心が折れた、というのがひとつ。(その頃調べた記憶をたよりに書いたのが今回の「ソシュールVSソクラテス」の批判記事である。)批判記事に限らず、数ヶ月調べて結局お蔵入りしている記事(案)はいくつかあるので、私がそう言う人間だという話でもある。

あとは、監修の先生がついたというのがひとつ。これは正しい選択であると思うし、協力しようという先生の姿勢にも頭が下がる。一方で「監修を求める」「監修を買って出る」どちらも、誰にでもとれる選択肢でもないと思う。批判記事を書くくらいなら「直接言ってやれ」「コメント欄に書け」「監修してやれ」という意見ももっともではあるけれど、コメント欄にあの記事相当の指摘を残すのは現実的ではないし、「監修」というのもそれなりの責任が伴うもので、どこまでコミットできるかわからないのに手を挙げるというのはかえって迷惑になりかねないし、そもそも肩書も教員職・研究職でない人間が監修になってもなあ、という気持ち、あと「中の人」になってしまうと、かえって気を遣って言いづらくなってしまうかなという気もする。「こういう奴が世の中をつまらなくする」というコメントももらったが、たしかに私が下手に関わっていたら台本段階でつぶれていた企画もあったかもしれない。

一方で、少なくとも監修の先生方のうちの一人は私のツイートを(すべてではないかもしれないが)見ているのは知っていたので、気になる点はつどつぶやいておけば、監修の先生経由で耳に入るだろうし、その方がクッションにもなっていいだろうという見込みもあった。実際「ゆる言語学ラジオ」から該当ツイートに反応があることもあった。いまや、めちゃくちゃリスナーとの交流があるなか、私の同一性がどの程度認識されていたかはわからないけれど、今回の記事がいきなり飛び出した初めての批判というわけではなく、それこそ「ゆるい」やりとりはいままでにもあったのである。そのあたりは、記事だけ読んでも伝わらないところではある。強調すべきところでもないとは思うけど。

とはいえ、監修の先生が入ってもなお、その大小多少にはふれ幅があるにしても、問題のある動画は出続けた。言語学関係の先生方の反応はというと、私の観測範囲では、たまに「おもしろい」というコメントもないわけではないけれど、その大方はまったく言及することがなくなってしまい、見かけても「久しぶりに見たけどあいかわらずひどい」というようなコメントがあるくらいになっていたし、中には「監修の先生は何しているの?」という意見もあった。もちろん、多くの先生方は本業が忙しいし、たとえ見ていたとしてもわざわざ批判する必要も感じていなかったのかもしれない、あるいは、立場上批判すべきでないと考える先生もいただろう。この状況自体もまたモヤモヤをかかえる原因であった。

ところで話は変わるが、私は「ゲームさんぽ」シリーズ(本家含む)が好きでよく見ている。「ゆる言語学ラジオ」(を教養コンテンツに含むとすれば)のような教養系動画が好きな人には同シリーズのファンも結構いるんじゃないかと推測するけどどうだろう。私は単純に専門家が自分の専門について話しているのを聞くのが好きなので、「ゲーム」でなくてもこのフォーマットで言語(学)専門の人が話すコンテンツを作ることができないかな、という夢想をよくしていた。(私は思いつかなかったけど、これぞという案がある人は是非つくってみてほしい;「7 Days to End with You を記述言語学者と遊んでみる」というのはゲームさんぽ的か?)結果的に「ゆる言語学ラジオ」がヒットしたことを考えると、そういったコンテンツが受ける下地はあったと思う。「言語学界隈」はそのチャンスを逃したともいえる。その穴を巧みにみつけて成功をつかんだのが(狙っていた発信者は他にもいたと思うけど)「ゆる言語学ラジオ」だったと言える。

結局私は行動に移せなかったけれど(その点では行動した「ゆる言語学ラジオ」の方が偉い)、私の周りには「言語(学)の知識がすごい」「話もおもしろい」人たちがわんさかいるわけで、自分自身が最良のコンテンツをつくることができなくても、自分が聞き手にまわる「場」を提供することはできたんじゃないか、というような後悔、というと大げさだけれど、そういったものができた。

話をもどして、失礼な言い方にはなるが(今更ではあろうけど)「水野さんでなければ、あるいは水野さんがもっと言語学を学んでいればなあ(反実仮想)」と思いつつ、こうなってしまった以上は、つぶすのではなくてたたいて鍛え上げたほうが、言語学界にとってもいいのではないかと思うようになった。本当は、言語学の専門家、つまり先生方から適切な批判が出てくることが好ましいとは思っていたけれど、上記のように、批判的なコンテンツはなかなか出てこない、先生の方からしても出しにくい、という実情があるだろう。この状況がまた先の状況と重なるのである。つまり、自分が最良の批判ができるわけではないけれど、この中途半端な立場だからこそ批判の「場」を作れるのではないか。

そういうモヤモヤがたまりにたまっていたころ、水野さんと監修の先生方の「ゆる言語学ラジオ」チームが言語学フェスで発表することを知った。もちろん、何の前触れもなく突撃して議論をふっかける、という選択肢もあったかもしれないが、それは誰にとってもたいして得るものはないだろう。むしろ、限られた時間で、ちょろっと話しただけで、批判的な発言をする牙を抜かれてしまうかもしれない。でもそれは、その会話に参加しない、多くの他者にとっては何も起こらないのと同じだ。議論をする前に、何が問題点なのか、すくなくとも自分が思っていることを、事前に広く参加者に共有しておくのは悪いことではないし、自分の考えの整理にもつながる。そして、一応は「ゆる言語学ラジオ」への批判であるけれども、彼らの発表のテーマでもある、広く「アウトリーチ」活動に従事する人、要するに他の(言語系の)発信者にも参考になるかもしれないと考えた。

というのはある程度は後付けだけれども、以上が「批判記事を書こう」というきっかけであり「品質よりも納期が優先された」原因でもある。必ずしも「直接言えばよい」わけではないと考えているということのひとつの説明にもなっているだろうか。

おもしろい感想文を目指して

「感想文としてはおもしろい」というコメントも頂いた。批判としてはおもしろくないということだろうか。結果的におもしろかったならいい気もするが、そう言ってしまうと、自分の批判と矛盾してしまいそうなので、意識的に「感想文」も書いてみる。

今回の批判記事が、この短期間で当初の想定よりも多くの人に読んでもらうことになり、コメントもたくさんいただいたのは冒頭に述べたとおりである。それこそが私の文章の拙さを示す傍証なのかもしれないが、「おもしろい」と言ってくれるコメントもあれば「つまらない」というコメントもあり、「丁寧な議論」と言われる一方で「あまりに雑な論」という批判もあり、「愛にあふれている」と感じる人もいれば「イライラ」や「僻み」を嗅ぎ取る人もおり、同じ文章を読んでいるはずなのに、人によってまったく真逆の感想が両立しているのは、純粋におもしろかった。もちろん、部分部分に分ければ、賛成が多い部分、反対が多い部分というのはあるだろう。けれど、最後まで読んだ後でその人の中に何が残るか(あるいは最後まで読み切れるか)というのはその人の抱えている様々な思いによるのだろうな、と考えると興味深い。まあ、考えてみれば、それはどんな作品に対しても言えることだし、あるいはどの学問に魅かれるか、というのにも通じるのかもしれない。

今回、ひさびさに自分の書いたものがバズった(って今でも使うの?)こともあり、また自分が書いたものが「批判記事」であるというのもあり、積極的に批判を拾いに行った。もちろん、手厳しい意見にふれてなお明鏡止水の心持でいられるほど強い心を持ち合わせているわけではないけれど、それでも、アカデミアから離れると、自分の書いた(駄)文をきちんと読んだうえで批判してもらえる、という経験自体が貴重になってくる。「批判は悪いものじゃない」と書いたけれど、思いがけず、自分がいち早くそれを実感することになった(堪えることは堪えるけど)。そういう意味でも「ゆる批判」は悪い概念じゃないかもしれない、みんながゆるく批判しあえる、そして多少の批判にも耐性がつき、批判をありがたいと思える、そういう雰囲気をつくれれば、世の中のコンテンツももっとよくなるかもしれない。人によってはそれが「世界をつまらなくする」と映るのかもしれないけれど。

今回の記事には「ゆる民俗学ラジオ」の黒川さんから反応いただいた。少し前にも、近い話題でツイートしたとき「ゆる哲学ラジオ」の平田さんに反応いただいたことがある。もちろんそれぞれ発信する側として思うところ、目指すところ、譲れないところがあると思う。そういった方々が私の意見を拾ってくれて、自分の考えを表明してくれるというのはとても嬉しいし、直接的なコンテンツを作るわけではなくとも、そういった人たちに後ろから貢献できているのかなと感じる。

第二ゆる自己批判

人身攻撃

私の記事にはさまざまな点で批判があったが、おそらく一番誠実に対応すべき点は一部の表現が「人身攻撃(人格攻撃)」にあたるのではないか、という点であろう。私が見つけられた批判の中では、次の化学史たんさんのものが比較的わかりやすいと思う(質問者は私ではない):

ゆる言語学ラジオへの批判記事は、ラーメンに例えるのであれば | Peing -質問箱-
ご教示願いたいのですが、「編集者なのにコンテンツでテキトーな話をしているのは、編集者としての能力を疑う」という発 | Peing -質問箱-

ここまで具体的な指摘ではなくとも、私の記事全体から、水野さんに対する「憎悪」や「負の感情」を読み取る人は少なからず見受けられた。これについては、冒頭で「もう応援していない」と書いているのだから、そういった負の感情を読み取るのも自然なことであるという指摘もあった。本文内でも書いている通り、私は水野さんや堀元さんのことを嫌ってはいない。そもそも私はあまり他人を嫌わない人間であると思っているが、嫌いだといえるほどお二人のことを知らない(このあたり、初対面でも人を嫌いになれる人はいるだろうから納得できない人もいるかもしれない)。逆に好きかと聞かれたら、好きでもない。同様に、好きになれるほどお二人のことを知らない。

もちろん、私が自分で意識していないだけで、無意識下には水野さんへの憎悪があり、それが文章ににじみ出ているのだ、という分析も可能なのかもしれない。それは私の専門ではないのでよくわからない。だから、そういった意見をあえて否定しようとまでは思わないけれど、行間からいろいろ読み取る前に、せめて書かれていることを書かれている通りに理解してほしいとは思う。

幸いなことに、水野さんご本人は、私の文章から、特に攻撃的な意図は読み取らず、むしろ冒頭の「応援していない」という言葉すら修辞的なものと解釈し、記事全体から応援してもらっていると感じていらしたようである。それはそれでポジティブ過ぎる読みではあるが、水野さんのいいところでもあるかもしれない。

とはいえ、「本人がよいと言っているんだからよい」ということにはならない。これは私も本文で書いた通りである。

主に問題となるのは「インフルエンサーの責任」と題した段落内の記述となるが、私はここで水野さんの編集者としての能力、本業の資質について具体的に評価を下しているわけではない。そもそも私にはそれを評価するだけの情報も知識も持ち合わせてはいないので、正しい判定は下せない。むしろ、番組から読み取れる水野さんの構成力や調査能力、対話能力というのは評価しているつもりである。だからこその「水野さんがもっと言語学を学んでいればなあ」なのである。

ここでの話は「監修の先生が、動画しか見ていない人からは、どう判断されうるか」という話とパラレルである。念のため、言っておくと水野さんが大手出版社で編集者をされていることは、動画内で自ら発言されているので、動画だけみていても視聴者には知られている前提である。その上でこの個所では「水野さんが、動画しか見ていない人からは、どう判断されうるか」について言及している。あえて自己弁護するならば「番組を見ている人からどう見えているか、見えうるか」という視点での一貫性はあるかもしれない。

他方で「ゆる言語学ラジオ」の学術的な正確性や、こういった「アウトリーチ」にあたる活動がどうふるまうべきかというのを主題として設定するならば、この記述は不必要であるという指摘は妥当であり、前提を共有していない人から(あるいは共有していたとしても)「人格攻撃」ととられかねない表現を残すのは、それそのものが問題であるし、批判とそこからさらにつながる議論の邪魔にもなりうる(実際、そこのみに焦点をあてた反応もある)。

この点については、私にもまだ咀嚼しきれていないというのが正直なところなのだけれど、「全然気にしていない」という水野さんの好意にあまえて、該当部分の記述は残し、ここに問題が指摘されていることを明記した上で、「批判」する際の注意点として皆さんの参考にしてもらいたいと思う。

よかったこと総括

多くの人に読まれたことで様々な反響があったが、「悪かったこと」をあげるならば、やはり不快に思われた方が少なくなかった、ということであろう。

私の執筆能力が高ければ、もっと時間をかけて推敲していれば、あるいは私よりも能力の高い人が批判記事を書いていれば、不快に思う人の数、あるいはその人たちの不快度はもっと小さく、もっと少なくできたかもしれない。しかし、そうした「批判記事」が世に出るとしたら、それはいつになっていただろうか。果たしてそれは出ていただろうか。

「よかったこと」のひとつめは、私の記事が想定外に多くの方に読んでいただき、賛否含めて多くの反応を頂いたことである。この、記事冒頭でも述べている通り、自分の書いた文章を批判的に読んでもらうということは、文筆を仕事としているのでもなければ、なかなかないことである。なにかをよりよくしようとすれば、批判は必須である。私自身の筆力、思考、知識といったものをよくするためには、やはり批判される機会というのは大切にしなくてはならない。

ふたつめは、「ゆる言語学ラジオ」の問題点が広く知れ渡ったことである。と書くと懲罰的に聞こえるかもしれないが、これは「アウトリーチ」に相当する活動、素人が発信する活動にかかわる問題である。これが広く認識され、議論を生むきっかけとなったなら、この記事の主たる目的は果たしたと言える。先般の「言語学フェス」において水野さんや監修の先生型が発表した「ゆるアウトリーチ学」の議論においても、私の記事を下敷きにした発言があったと聞く。これは、本人たちにのみ直接伝えていたのでは得られない効果なので、その意味でもnoteを利用して、一般公開という形をとってよかったと思う。

みっつめ。これは上記とやや重複するが、より「ゆる言語学ラジオ」寄りの現象として、今回の批判記事が個々のリスナーが抱えていたモヤモヤを言葉にするきっかけとなった。多くの方は「合わない」と思ったら、何も言わずにコンテンツから離れてしまうし、見続けている人の中には、何か思うところがあったとしても、みんなが楽しんでいるから水を差すようなことを言い出しにくいという人もいただろう。聞くところによると、今回の記事はサポーターコミュニティ内でも概ね好意的に受け止められており、「そうだよね」という反応が多いらしい。ということは、近くで支えている人たちの中にもそれぞれ抱えている思いがあったに違いない(中にはすでに表出している批判もあっただろうけれど)。この記事をうけて、改めて水野さんが「批判は歓迎」と明言することになり、これをきっかけに「自分たちの好きなコンテンツをよくしていくために批判していいんだ」という空気が醸成されれば、それだけでも記事を執筆した意義はあったと思う。(私一人の書いた記事よりも)もっと多角的でもっと高度な批判がサポーターコミュニティ内部から次々と生まれていくことを期待している。(ついでながら、私のnoteのアカウント名が「ご」一文字であることから、自分の名前を一文字にするのが流行っているという話も伺った)

よっつめ。先日の言語学フェスで多くの先生に話しかけてもらえた。その際、私の記事を読んだこと、そこから「アウトリーチ」についてどんな考えを抱いているか、各先生からお話を聞くことができた。私に話しかけてくれる先生というのはすでに面識があることが多いので、その分好意的に解釈してくれているという側面もあるかもしれないが、いずれにせよ、そういった話ができる相手として、専門家の先生方から認識して頂いたのはうれしかった。(一方で一人一人の先生と話す時間が長くなってしまったので、知っている先生全員に挨拶してまわるということはできなかった。今回お話しできなかった先生とも、次の機会にぜひご挨拶させてもらいたい)

いつつめ。言語学専門の方以外とも交流するきっかけとなった。今回の記事は多くの方から直接・間接に反応をもらった。中には「言語学専門の方の視点がわかって勉強になった」といったコメントも多くあった。これは「ゆる言語学ラジオ」が非専門家層にもリーチできているということを示していると同時に、やはり専門家側が意識しないといけないことではあると思う。より個人的な話にもどせば、今回の記事には上述のとおり「ゆる民俗学ラジオ」の黒川さんや、ある意味アウトリーチ活動の当事者ともいえるラテン語さんからもコメント頂いた。自ら発信している方々からも反応がいただけて、交流するきっかけになったのは、個人的にうれしいことである。

他にもあげられることはあるかもしれないが、ひとまずこんなところであろうか。いろんな反応があったので、中にはあたりのきついものもあり、当然ながら、それについて何も感じなかったわけではないのだけれど、「人気コンテンツ」を批判するというのはそういうことでもあり、また、上に述べたようないいこととの比較の上では、かすむほどのものでしかないので、総合的にみれば、執筆コストを優に超えるメリットがあったと感じている。

改めて、私の記事を読んでいただいた方々、コメントしていただいた方々、また会話してくださった方々に感謝申し上げたい。


反応(感想や批判など)

個別のツイートや、はてなブックマークでのコメントは引用しないけれど、私の一連の記事についてブログ等それなりのまとまった分量の記事で反応いただけた場合には、ここに並べたいと思う。好意的な反応ばかり載せるのもあまりよくない気がするので、もし数が増えるようであれば、批判的なものが多めになるように調整するかもしれない。(今のところ困るほど増える兆しもないけれど)

また、「ゆる言語学ラジオ」の用語などをまとめている「ゆる言語学ラジオメモ」というサイトで、批判のひとつとして私の記事も掲載いただいた他、私の記事に対する反応等もあわせて紹介されている。私一人では拾えきれないし、この記事も更新し続けられるかわからないので、こちらも参照されたい。


炎上が怖いなら

ちなみに、炎上しないコンテンツづくりに最も参考になると思うのは、「ハローキティチャンネル」だと思っているので、そのあたり興味ある方はせめて「コメ返」回だけでもいいので(古い方から)ぜひ見てほしい。

つまり、「正しい意味において、真実に哲学している部類のひとたちが、政治上の元首の地位につくか、それとも、現に国々において権力を持っている部類のひとたちが、天与の配分ともいうべき条件に恵まれて、真実に哲学するようになるかの、どちらかが実現されないかぎり、人類が、禍いから免れることはあるまい」と。

プラトーン『第七書簡』326A-B, 長坂訳

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