【読書感想】『ニホン語日記』
今日は、井上ひさし著『ニホン語日記』について、書き残したい。
はじめに
本書は、平成初期に週刊文春で書かれた、
井上ひさしの日本語にまつわるエッセイを
集めたものである。
内容は、最近(といっても平成初期あたり)の日本語の傾向や、
井上ひさしの言語にまつわる関心事、
そして外来語が日本語を侵食していく傾向や、
「カタカナ」など、様々な題材が取り上げられている。
「様々」といったが、各エッセイにカルタのようなものが描かれ、
五十音順に取り上げられているため、50のエッセイが本書で取り上げられている。
私は何の肩書きもない素人ではあるが、言語に興味がある。
井上ひさしは日本語の崩壊を憂う様子が、本書の随所から読み取れるが、
私の関心は、日本語云々の話ではなく、
それ以前の問題としての、なぜ我々は言葉を扱うのか
または言葉を扱うことで何を意図してしまっているのか、
といったところに自分の興味があるような気がする。
もちろん、自分の関心に近いようなことも、
井上ひさしは本書で綴っている。
そういう訳で、この本は自分にとっては面白いものであった。
「言葉」というものを普段、気にしないような人も
あらゆる言葉を意識せずには居られないだろうし、
あらゆる言葉を楽しむことができるだろう。
言葉観察
日常を見渡せば、ありとあらゆるところに言葉は存在する。
何かを伝えるためには、言葉なしでは不可能に思えるからだ。
井上ひさしの面白さの一つに、収集癖があげられる。
例えば、本書では、不動産広告のキャッチコピー、ピンクビラ、伝言板、
ラブホのらくがき帳、大学サークルの勧誘文句、プロ野球名鑑の座右の銘、
など他にもあるが、
その文体や言葉そのものから傾向を分析し、
どんな社会背景が裏に潜んでいるのかを導き出す。
我々がすぐに捨て去ってしまうチラシなどからも、
面白い結果が潜んでいるに違いないことを思わせるのである。
諸所の内容については、本書を読んで欲しいが、
特に私が好きだった、「不動産広告のコピーは、いま」については取り上げたい。
これは不動産業界が、ある物件を良いものと見せようと、
苦心して生み出したキャッチフレーズを収集したものである。
そこからよく使われる言葉があることを、井上ひさしは発見する。
本書で取り上げられていた「羨望の」「いま○○」「気品の」「憧れの」
といった文句を「枕詞」として例えるところが、面白い。
しかし、その分析だけでは留まらないのが井上ひさしである。
資本主義社会で、ものを売らなければいけない時代に、
どのような表現をすれば購買意欲を高めることができるのか。
購買者に誇大に煽らねばならない事情も、言葉の背景にあるだろう。
その中で、実態と言葉によるイメージの乖離が増すのである。
ここに賛否を持ち込むことは簡単であるが、
今後の社会について、考え、議論してはどうだろうか。
言葉から社会をどのように読み解くことができるだろうか。
言葉自体の匂い
私の言語関心
先日ある本屋で、男女が口論しているのを見かけた。
うろ覚えなので、ふんわりと書くが、
男性が何か謝罪したのに対し、女性が
「その言葉自体に私に非がある言い方なんだよね。
まずはさ、素直にごめんなさいじゃないの?」
と言い放ったのである。
これはよくある風景と言っても差し支えないだろう。
ここで私が気になるのは、
“その言葉自体に私に非がある言い方”
という表現である。
そもそも言葉自体には、
ある前提条件やその人の意識が無意識にも現れてしまうのである。
例を挙げるならば、今さっきに使った
「無意識」という言葉自体にもある前提が含まれている。
「人間には意識がある。そして意識としては捉えられないものがある。」
という条件を暗に受け入れていることを示す。
違う角度からこの問題を捉えれば、「雨」と「rain」である。
「雨」と「rain」はイコールでは到底結び得ないものであると考える。
言葉とはその土地土地で、人々のイメージを託されたものである。
つまり環境も文化も異なれば、結果として指すものは同じでも、
プロセスは全くもって違うものであることが予想される。
さらに話を広げれば、
一説によると日本語には、雨を表現する言葉が400種類以上あるらしい。
その意味で「雨」と「rain」は同じものなのか。
私はそこに疑問を抱くのである。
「利益のやりとり」
このような私の言語に対する関心に近いものが本書でも散見される。
「利益のやりとり」というエッセイでは、
母親が息子に宛てた、ある手紙で、「~下さい。」という語尾が
多用されていたことを取り上げる。
これについて井上ひさしは、
と述べる。
言葉自体がその人の意識を表している例と言える。
しかしまたこうも思う。
我々は、ある価値観に言葉を選ばされているのではないか。
ここには二つの意味が含まれている。
母と子というその時代の関係性のイメージが
あらゆる言葉からその言葉を選定させた、というのが一つ。
二つ目は、本当はたくさんあるが、数個の表現しか知らずに、
必然的にその言葉を選ばされていることである。
ここまで書いて申し訳ないのであるが、
私は、この問題を深掘りするほどの知識は持ち合わせてはいない。
また別の機会で、考えたいと思う。
「マニュアル敬語」、「ボディ敬語」
次に、「マニュアル敬語」、「ボディ敬語」というエッセイも、
この問題に関連する。
今でも当然のことであるが、
何かしらの店舗に、客として入れば敬語で対応される。
しかし、
と述べるように、「敬語」の価値が下がったのか、
はたまた社会が認める「価値」が変容したのか、
そのどちらもありえるが、
言葉の変容は、社会の変容、その逆もまた然りである。
そしてまた、井上ひさしは、お辞儀などの身体表現である、
「ボディ敬語」についても言及する。
今でもそうであるが、マナー作法として、お辞儀の角度を、
時と場合によって分けることが求められるマニュアル。
そういった厳格化されたボディ敬語に対して、
公的に知らない人との関係性については、戦前と戦後、そして現代では
かなりの変化があったことが予想される。
住宅が木造からコンクリートに変わり、
一軒家からマンションに変わり、
生活スタイルは大きく変わった。
それと同時に、人付き合いも変化したことは容易に想像できる。
その中で、生産性や質の均一性を目指す会社の在り方により、
接し方がフォーマット化することで、
相手への敬意も均一化したというのは、過言であろうか。
そして、一度フォーマット化されてしまうと、
些細な違いや変化を認めることも、違うやり方を考えることも
面倒な我々人間は、それに倣うしかないのである。
それに伴い、フォーマット化以外のコミュニケーションは経験不足となる。
さらに、フォーマットが強力であればあるほど、
フォーマット以外は無関心になると言える。
井上ひさしがこのように感じるのは、
無関心によるところではないだろうか。
無関心と言えば、私には思うことがある。
電車で人を人とも思わず、
肩で人を押し除けるようにして降りる現代人は
そういった中での産物ではないかと考える。
そして、それをも異常だとは思わない雰囲気も、
いささかどうなのかと思う。
言葉と社会
最後に「昌益先生の辞典」というエッセイを紹介する。
昌益先生とは、江戸時代中期の思想家である安藤昌益を指す。
医者や学者、村おこし運動を始めたいと多岐に渡るも、
その経歴は謎が多いと言う。井上ひさしによれば、
世界で最初に「働かざるもの食うべからず」や「男女同権」、
「万人平等」、「開発の害」、「環境保護」などを言及した人らしい。
その中で、井上ひさしは「漢字論」、言葉について取り上げる。
安藤昌益は、
と述べる。これについて井上ひさしは、
と追記する。
世の中を整序する、何かしら高度な思考をするには、
言葉が必要不可欠ではないかと予想される。
(数字と言い換えてもわかりやすい)
その意味で、「言葉が出来る人間」が上に立つと言える。
それにしても昌益先生の言葉はインパクトがすごいが、
ここで視点を広げ、構造主義者に目を向けると、
(以前紹介した『寝ながら学べる構造主義』より)
思考や経験、私たちの用いる言葉の中には、
無意識な価値観、イデオロギーが含まれることを
ソシュールやラカンは指摘する。
我々が今使っている言葉の中にも、暗黙の支配があり、
日々それを享受して生きているのではないかと思える。
支配と反乱は価値観と損益の異同によってなされている点から、
昌益先生の指摘は本質に近いものがあるかもしれない。
おわりに
井上ひさしの言語に対する嗅覚は鋭く、
『ニホン語日記』は1996年出版であるが、
今でもまだまだ内容が褪せることはない。
それどころか、私も何か収集したいと思わせる、
そんな本である。
言語に興味がある人はもちろん、
ない人でもぜひ。
私にとって、言語に関心があると述べたが、
さほど深い議論にまで行けていないのが読んでいただけたらわかる。
そこで、読者の皆さんにも、是非とも言語に関心を寄せ、
私にご教授頂けたらと思う。
以前、私は筒井康隆の『残像に口紅を』を紹介したが、
この本もいわば言語問題を扱っていると言え、
私にとっては共鳴するものがあったのだろう。
少々長くなりました。
本記事で紹介した書籍一覧
(↓ 読んでないですが、2もありました)
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