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Positive Vibrationに関するあれこれ

この曲から新生ウエイラーズ2枚目のアルバムRastaman Vibrationです。

前作Natty Dreadでサウンドの中核を担っていたメンバーが離脱して代わりに新しいミュージシャンがバンドに加わっています。

1976年6月時点のウエイラーズ(上段左から: アルヴィン・パターソン、ドナルド・キンゼイ、ボブ、アール・チナ・スミス、下段左から: カールトン・バレット、アストン・バレット、タイロン・ダウニー)

再びメンバーチェンジ

抜けたのはギターのアル・アンダーソン(Al Anderson)とキーボードのバーナード・タウター・ハーヴェイ(Bernard Touter Harvey)です。

アルはPeter Toshに誘われて彼が立ち上げたバックバンドWord, Sound and Powerに参加するために脱退(でもまた戻ってきます)、タウターは掛け持ちでやっていたポップ路線のレゲエバンドInner Circleでの仕事が忙しくなったために離脱したようです。

ふたりの穴を埋めるかのようにリード・ギタリストのドナルド・キンゼイ(Donald Kinsey)、リード・ギター、リズム・ギター、パーカッション担当のアール・チナ・スミス(Earl Chinna Smith)、キーボード奏者のタイロン・ダウニー(Tyrone Downie)の3人がボブに口説かれてウエイラーズに加入しています。

さらにはメンバーとしてクレジットはされていませんでしたが、アルバムNatty Dreadからレコーディングに参加していたボブのトレンチタウン時代の兄貴分アルヴィン・シーコ・パターソン(Alvin Seeco Patterson)がパーカッショニストとして正式メンバーになっています。

サウンドの変化

大幅なメンバーチェンジが単なる欠員補充じゃなかったことは、Positive Vibrationの斬新な音がはっきりと物語っています。

弾くというより空間を埋めていくようなダウニーのスペーシーなシンセサイザーの音とチナ・スミスが刻むねばっこいリズムギターのリフはこれまでウエイラーズになかった要素です。

アルバム二曲目Roots, Rock, Reggae以降はパーカッションも新しいアイデア(ヴィブラスラップやべルなど)でパワーアップして、リズムに変化と楽しさが加わりました。

こうしたサウンド深化のキーパーソンはダウニーとチナ・スミスです。

才人ダウニー

1956年キングストン生まれのダウニーはウエイラーズ加入前はほぼ無名の若手ミュージシャンでした。

Tyrone Downie

キングストンのホテルのレストランで演奏しているハウスバンドに若くて素晴らしいキーボード奏者がいるという噂を聞きつけて腕前をチェックに訪れたボブにその場でリクルートされたそうです。

非凡なアレンジの才能でウエイラーズでもすぐに頭角を現して音楽面でリーダ-シップをとっていたと言われています。

1980年のボブ最後のコンサートまで行動を共にしたコアなウエイラーズメンバーのひとりです。

ボブの死後はフランスに渡って音楽活動を続けました。

ジャマイカの音楽シーンでは珍しい大学で学んだ人だったんで、人とは違うユニークな人生のコースを選んだのかもしれません。

フランスではセネガルが生んだスーパースターYoussou N‘Dourのアルバムをプロデュースしたり、Jahzzというレゲエバンドを組んで活動していたようです。

ダウニーも残念ながら2022年11月に天に召されています。

追悼の気持ちを込めて彼の演奏が聴けるナンバーを貼っておきます。

仕事人チナ・スミス

チナ・スミスはレゲエ・ギタリストと言えば、必ず名前が出てくるビッグネームです。

彼は健在で今も音楽活動を続けています。

Earl Chinna Smith

ギタリストが必要になったボブに声をかけられた時、チナ・スミスもまだ20歳を過ぎたばかりでしたが、すでにThe AggrovatorsThe Upsettersといったバンドを経由して人気レゲエシンガーのレコーディング・セッションには欠かせないハードワーキングな音楽集団Soul Syndicateの中心になっていました。

この当時バックミュージシャンが必要になったらまずSoul Syndicateに声をかけるというのが業界の習わしだったと言われています。チナ・スミスはオリジナルウエイラーズの録音にも何度も参加していてボブとも旧知の間柄だったようです。

ウエイラーズ加入期間はRastaman Vibrationのレコーディングと続けておこなわれた海外ツアーだけですが、後続アルバムExodusSurvivalUprisingでもギタリストとして数曲参加しています。

1980年代以降はプロデューサーとしても活動、来日回数も数知れずのジャマイカを代表するレゲエミュージシャンになりました。

ニックネームのChinnaは中国系という意味ではなく、ステレオチューナーのジャマイカ訛りChunerがその由来だそうです。

チナ・スミスも紹介を兼ねていくつか曲を貼っておきます。

もうひとりの新ギタリスト、ドナルド・キンゼイについてはWant Moreに関するあれこれで書くことにします。

兄貴分シーコ

アルヴィン・シーコ・パターソンは1930年生まれ。子供の頃に両親と共にキューバ(ハバナ)からジャマイカに戻ってきた「帰国組」です。

Seeco and Bob in Japan

シーコというニックネームは本名Franciscoに由来します。

若い頃アメリカに移民しようとして失敗したり、長い間ボーキサイト採掘場で働いたりしていた苦労人で、トレンチタウンのガバメントヤードで若き日のボブを励まし支えた恩人のひとりです。

爆発事故で危ない目に遭い、ボブにアドバイスされて採掘場での肉体労働をやめてパーカショニストと再出発しています。

まだPeterとBunnyがいた頃、ウエイラーズが初のイギリスツアーをおこなった際にはローディとしてバンドに同行しています。

音楽的には目立つ存在ではありませんでしたが、最後までボブの私生活と音楽を支えた年が離れた兄のようなキャラの人でした。

残念ながらシーコも2021年11月に天国に旅立っています。

いよいよドラマが

1974年10月に前作Natty Dreadが世界発売されて以降、メンバーチェンジ以外にもボブの周辺ではいろんな変化が起こりました。

ここには書ききれないのでPDFファイルでこの時期の主な出来事を一覧表にしてみました。

ここからボブの人生は何度も急展開していきます。

ですが、この場を使ってボブの人生を時系列的にカバーするつもりありません。

あくまで曲について書くという設定内で出来ることをやっていきたいと考えています。

オーソドックスな取材方法(関係者インタビュー)とは別の「今だからこそ」可能なアプローチ(ネット検索)で調べまくり、ボブが駆け抜けた道をいろんな角度からたどっていくつもりです。

みなさんが「ボブマーリー和訳ライブラリー」で動画を視聴しながらあれこれと想いを馳せるお手伝いができたらうれしいです。

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