ふとん文学~第5章 なかなか読書に集中できずにTwitterばかり読んでしまうこと~
朝から晴れた朝、見知らぬ街を歩いていて、天から声をかけられる
ベランダで布団を干している人がいて
「今日はすごく良いお天気ですね」と言われて
ドキリ。
『こんなドラマみたいな声掛け久しぶり...!』とドキマギする。
「あたたかくなりそうですね」
とさわやかな笑みで言われ
「そうですね」と上顔身の笑みで答えると、住宅街で、草原の風吹くような気持ちになれた。
さわやかさなど私は持ってないと思ってるので、伝染してきてありがたい。
「気をつけて行ってきてくださいね~いってらっしゃ~い!」と満面の笑みを降らせてくれて
驚いて簡単に会釈した。
『いってらっしゃいなんて、あまり言われないから、ドキドキしちゃうのかな...!』と思った。
あの瞬間、さわやかな扉を開けてくれたようで、その人が毎日されてる事なのかもと思うと
1日の彩りを変えてしまう、名も知らぬ方ベランダの女神へ尊敬してしまうのだった。
あんな風になれないし、なりたい。
偉い人の石膏みても背景知らないんだけど、こんな人が石膏になったら世界って、だいぶ良いんじゃないかと思った。
その日の夕方、朝の女神のおかげか、作業の合間に30分程本を読むことを決意した。
2階のテラスに出ると、同じ高さの公園が目の前にあった。
さくらが咲いていて、不思議な空間であった。
空を飛んでる飛行機すら霞んでいて何の汚れか?少し顔がかゆかったけれども。
ぼんやりした水色と、オレンジがミルク色に混ざって肌に心地いい気温でしんみりと暗くなってく様をみて『あぁ、綺麗…』とため息と深呼吸が浮かんだ。
この空の下で読書したら溶けてしまうんではないかなと思えたので、カバンに入れていた安西水丸さんの「たびたびの旅」を読んだ。イラストレーターでエッセイも描かれている、すべてにおいてゆるやかで、やわらかい印象を持つお方。
イラストを描くのが好きでお酒が好きな人間、という100億くらい別のところがあるのに、たった3つで感情移入してしまうのだ。
それぞれの地域の特徴をやわらかい言葉で歴史を説明したりしている
『他者や外側に興味ある人の世界ってこんな言葉なのだな。』と思うので「全然ちゃうやん」ともなれる。
読んでないときは、自分の事ばかり考えたり、身近な事に圧迫されてしまいそうになるんだけれど、他人の文に、ちょっと間を作って、風通し良くしてもらったような感覚がある。
されど、こんな心地よい感覚を感じておいてなんですが、普段、本を読もうと思うのだが、なかなか読めていません。
意気込んで『よしっ、読むぞ』と思わないと
本を前にしていると、同じ極の磁石で離されているような感覚を感じる
入り込んで自分が消えていくようなものが読書と感じているが、そこまで行きつく時間が長いのだ。
そして、場所を整え読み始めると、頭の中で問いや会話がバチバチ始まって
1章ごとに「ふぅー」と一息ついて心を整理してから次のページをめくらないと、弾けて割れてしまいそうな感覚を感じる。
恐らく、私は水中にもぐっているのだろうなと思う。息を止めてるわけじゃないけども、頭の中で沢山酸素を吸いたい気持ちを抑えて、深くもぐっては、海面で息を整える。
そんな読書の仕方、してる人を知らないので、「あぁなんて集中力が無いのだ」と、ついつい劣等感も生まれる。
そして、何故かだかTwitterにつきましては、ここ3年すんなり読めるようになって、活字は読みまくっている。
人生で一番他人のを読んでると思う。
今までは自分が書いてる量の方が遥かに上だったのだ。書くのはとてつもなく好きすぎて小1の時から先生に毎日日記を 1日に4~5回書いていた。毎回花丸を貰って、金メダルみたいにうっとりと眺めていた。透き通るピンクに近い赤のインク凄くときめいていた。
しかし、私の頭には、自分から言葉があふれるばかりに、画像や景色は沢山の容量が入るが、言葉はたくさん入らないスペックと思っていたのです。ホントにここ数年でバージョンの違いに、機種変かよ。と驚く。
そのおかげで、読書や色々が、どんどん後回しになって、Twitterばかり読んでます。これがツイ廃人なのでしょうか。
恐らく息継ぎが楽なのだと感じる。
140文字で読んだ後、私が整理したりその言葉について、心で会話している秒数が短い為
水面でのクロール状態で、どんどん読めてしまう。楽である。
批判とか、込み入った内容は
昔ほど感情移入せずに『そう思うんだな~』と景色みたいに流せるようになってきた。
受け流せない代表と自分を思っていたけどフィールドを降りたみたいでちょっと嬉しい。もしかしたら、私のフィードが平和なのかもしれませんね。
面白い内容や気づきは、「ってことはこういう事か!」と勝手に風呂敷広げて、新しいおもちゃをみつけたような、数式を見つけたような嬉しさに包まれてしまう。
その割、ちょっと恥ずかしいも感じてるから、いいね。が押せない。
ここまで言い切る事ってそうそう今は言えないから、あぁ押せん。となる。
言い切れないよね。昔は言い切っていたけれど、思い出すと恥ずかしくなる。心は形にならないから曖昧で矛盾がいっぱいで、きれいじゃないから新しいものが生まれてく気がする。
ラジオで高橋幸宏さんの追悼番組「サラヴァ、高橋幸宏~感謝を込めて音楽を」 にて
ムーンライダーズと一緒に歌ってる「9月の海はクラゲの海」という曲があって
「君の事何も知らないよ。君の事全て感じてる。
君の事みつめていて、君の事なにもみていない」
というフレーズを聴いていると
このくらい遠い矛盾を掛け合わす事は、沢山の事辛さや悲しみ、好き嫌いまでも大きく包んでくれそうなものなんじゃないかと感じる。
新しい斬新な、おしゃれなロゴをみたような、かけ合わせのクリエイティブなものをみているような感じがしている。
だから、言い切ったとしても、その後に少し反対の事を言いたいですね。なにを言ってるんやとなってしまうんだろうか。
恐らくTwitterでも 本でも「会話している」ので、言葉を知らない誰かと交わしたい気持ちが大きいのだ。
それはbarや日常生活も全て一貫しているので
これからもこんな生き方なんだと思うと
不思議。
水丸さんとも会話してしまう。
絵を観ても会話してしまうし、文字を観ても「その気持ちわかるような気がします」と「新しい考えですね、ということはこの事柄もこういうものになりますかね。」と新しい化学変化で自分の中だけでどんどん発想が広がる事件が起きてる。
書いてみて、誰とも共感できない読書の話かもしれませんね。
もしも、孤独の中、私が紡いだ文を、誰かが会話してくれてたら、嬉しいし、かわいらしく感じてしまうかもしれませんね。
そんなこと今の所ないと思うんですが、諦めて、このまま海の中で漂流してみようかと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?