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朝に夜を記憶する——清里にて

 まだきっと、誰も目を覚ましていない沈黙の濤声を聴く。はるかの遠くで浅緋色が足音を立てずに東の空にゆるやかにひろがり、目の奥までじんわりとあたたかな明るみが入り込んでくるのをじっと感覚する。そのやわらかな光体をそっとからだの中に閉じ込めてしまいたいという衝動に駆られて、わたしはまぶたを閉じた。
 そのままひっそりと、時が足をとめる気持ちがしてくる。そうしているうちにゆっくりと朝のふかさをひとりじめしている幸福に包みこまれる。この安らぎのうちにからだが内側から伸びてゆくのを感じた。
 この朝の静けさはこの土地特有のものなのだろうか——そう思いながら滞在している清里のホステルのまわりを適当な方向に歩いてみる。ホステルは街を遠くに眺めるくらいに離れた高台に、背の高い針葉樹の群れを背にしてそこを居場所としていた。右隣にもほとんど同じ家の造りが一棟だけ、寄り添うように佇んでいる。おそらくオーナーの母屋であろう。

 ゆうべの出来事がふと、意識のうちにのぼる。わたしは相当に疲れていたと記憶する。二度の乗り継ぎを経てやっと降りた道東で休む間もなくレンタカーを走らせ、暗くなろうとする空に急かされながら宿を目指した。目的地についた頃にはすでに神経がのびきったようにくたびれていた。
 狭い車内から解放されてちぢこまったからだを自由にしてから、灯りのついた方向へ向かう。扉をあけると、天井から吊り下げられたアンティーク調の控えめなシャンデリアがちょうど一畳ほどの玄関を照らしていた。

「ようこそ、遠くまでいらっしゃいました。こちらまでどうぞ。」

 声のした方を見上げると、もうひとつ上の階からこちらへむかう傾斜をくだる足音と一緒にひとつの人影が目に入った。
「あ、そうそう、今夜はきっといいものが見れますよ」
どこか嬉しそうに話すその佇まいから彼が過ごした時間の分だけのおだやかさを感じ取ることができた。さきほどまでの疲れからくる器官のこわばりが不思議と溶けてゆく。
 ほどける緊張感の先でさきほどの言葉が反芻されて、その言葉の意味がわかっていないことに気が付いた。
「あの、今夜はその、なにか特別なことがあるんですか」
「特別、というとなんだか自信がないですが、こんなにも晴れている夜はこの時期とてもめずらしいので」
 よく澄んだ清里の夜の空は写真家たちの中でも評判がよく、それをフィルムにおさめるためにここ三日間ずっと泊まり込んでいる客もいるそうだ。オーナーとそんな立ち話をしていると「こんばんはー」と挨拶をして外に出ていく二人組とすれ違った。彼らも今夜を待ち侘びた客のうちらしく、こんもりと上着を重ねた姿でくるりと大きな黒目のいかにも上質そうなカメラを肩からぶらりと下げて出ていった。
「お客様も荷物をお部屋に運ばれてから外へ出てみてはいかがでしょう。きっとしばれるからあたたかくしてください」
 オーナーに礼を伝えてからみじかくもながくもない廊下を辿って部屋へ向かう。三日も待った客がいるという清里の夜は休みたいと欲望するからだとは対岸にあるわたしの心をそそるものが確かにあった。今朝つめこんだばかりの荷物の中から内側にまるく小さくされたカーディガンを掴みとり、ぱっくりと口を開けたトランクをそのまま放って部屋をとびだした。

 さきほど通り過ぎたばかりの玄関を抜けて、夜に冷えた暗闇の中にからだをくぐらせる。ちょうど着いたばかりの頃はまだあった陽の痕跡はもうとうに消えていて、深く澄みわたる空気の一線一線が唯一おおわれていないわたしの顔のまわりにつめたく引かれてゆく。この闇のうちに体の奥まで心地よい黒の色が染み込んでいくのを感じた。墨染めた色にこんなにも恍惚な感覚にさせられるなど当に思わなかった。

「あ、きたきた、こっちこっち」

 人肌の温度をまとった聞き覚えのある声が聞こえて、その先でうすらと揺れる影の方へ近づいてゆく。声の主の表情までわかるくらいに近づくと、安定しないだろうバラバラと石の混じった土の上にたてた三脚に張り付いているさきほどの二人組の姿もあった。
「そうしたらちょっと待っててくださいね、灯りを消してきますから」
 オーナーは慣れた足取りで玄関口まで走っていった。その背中を見送りながら、やっとのことで慣れてきた視界をさぐってみる。本当にあたりはなにもない丘の上にいて、何者にもさえぎられていない空の存在を確かに認めることができる。

 途端、一瞬自分が目をつむったのかと思うくらいに先ほどとは全く違う闇の中に取り込まれた。ホステルの内外の灯りがすべて消されたらしかった。今しがた生まれた闇に視力を追いつかせようとするのも束の間、「ちょっと、ほら、上、みてみ」と、隣のカメラマンらしき人物に声をかけられ、思い出したかのように首を斜めにのばして視線を空に近づける。同時に、目の中に取り込まれる闇の色がまた変わるのを知覚する。
 ぐっと深くまで沈み込んだ呂色の中にぱらぱらと降ってきそうなほどのちいさな粒たちが、左に右にその場でくるりくるりと揺れてみて自身の輝くのをたのしんでいる様子で存在していた。

「夜が、踊っている」
愉しそうにする頭上の天体にすこしばかり嫉妬する。天を軽やかに踏み鳴らす星の音を聴く。彼らはこの夜の間は自由にそのからだを揺らしているみたいだ。時折、誰かが空に試し書きをするみたいにサーっと斜線をひいたみたいな星が流れていく。夜が自由だった。




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