見出し画像

geniusは精霊 〜アートの匿名性について〜

顔の写っていない写真を何故か見入ってしまう。それは自分であり得たものだからかもしれない。本格的に人を撮るようになってから半年も経っていないが、始めたばかりの頃は顔をメインに写真を撮っていた。当時、人を撮るということは必ず、その人の顔を写すことだと考えていたから。顔になにも被さらないように、はっきりと表情が写るように。しかし気づいたら、自分であったかもしれない人として、被写体を撮るのが好きになっていた。いつの間にか私は被写体を自分の一部として捉えるようになり、被写体を通して、自分の中にいるもう一人の自分を見出しているような気持ちでシャッターを切っている。

ところで日本で「売れている」アーティストには、アイドル性が付き纏っている。作品よりも作品を具現化する人のキャラクターや人間性などが前に出てきているように見える。私にも熱烈に好きな演奏をするミュージシャンがいる。プレイが発狂するほど好きで、もちろんミュージシャン自身も好きだが、自身というより私はどちらかというとその人のメンタルが好きなのだ。孤独な時も、その人に自分を投影することで、私がその人のメンタルを自分の身体に取り込んでは、踏ん張れている。
‘genius’「天才」の語源となった古代ギリシャの「ゲニウス」は、創造の精霊だったと言われる。おそらく、本来アートとはこのように身体を持たない、匿名性の強いものではないだろうか。それはアーティストの生み出す作品が持っており、同時にあなたの中に存在するもの。言葉も作品も、好きだなと思ったものは全部自分の中に溶けてしまって、誰が生み出したものなのか全く見分けがつかなくなるように。

私はいつでも自信がない。自信がないことで頑張れているから自信がめちゃくちゃ欲しい訳でもないが、どうやって写真を撮ったのか、どうやって描いたのか、果たして本当に自分が作り出したものなのかいつも確信を持てないのも原因の一つだ。撮る時も描く時も全部が衝動で、どういうわけか、例え自分一人で作品を生み出していても寝ると全てを忘れてしまう。一度、私の写真が誤って別の名前のカメラマンの作品として投稿されていたことがあったのだが、自分のフォルダを確かめるまでそれが他人の作品だと本気で思っていたこともある。(多分疲れていたのもある。)その時はさすがに自分、頭大丈夫かと心配したが、「あの人だったらこうするだろう」という私の中の大量の匿名アーティストが無意識に出ているからかもしれないと思うと、少し安心するのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?