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沖縄の風に吹かれて 第8話

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勉強は素敵だ!


沖縄で教育系の冊子を発行されている喜屋武さんという方がおられる。今までは「ジュクタン」という、要するに塾を対象とした冊子を長いこと発行されている。

塾を対象としたと書いたが、そうはいっても興南をはじめとした私立高校を紹介したページもある。どれぐらいのペースで発行しておられるのかは存じ上げないけれども、多くの学校や塾、あるいはジュンク堂書店那覇店などに置かれている冊子である。

その喜屋武さんが「ツータン」という冊子を新しく出すことになった。キムタツさんに創刊号で書いてほしいんですとご連絡を賜り、「勉強は素敵だ」という文章を書かせていただいた。すでに目を通された方々もいらっしゃるとは思うが、こちらにも貼り付けておく。

以下は「ツータン」に寄せた小文である。
私たちは生きていかねばならない。できることならば幸せに。何を持って幸せとするかはヒトによって異なる。画一的な幸せの押し付けなどあってはならない。私の場合、家族が横にいて、本を読んだり文章を書いたりしている時間が何よりも幸せである。ヒトによってはそれがスマホのゲームであったり料理であったりスポーツであったりするのだろう。幸せはヒトによって異なる。

 幸せを感じるためにはある程度のレベルに達していなければならない。文章を書いている時間が幸せだと書いたが、文章力が極めて貧弱だと幸せだとは感じられないだろう。スポーツをしている時間が幸せだとか楽器を演奏している時間が幸せだとかいうヒトの場合、それらのレベルが低くてヘタクソであればむしろストレスを感じるのではないだろうか。その点で勉強は幸せの必須アイテムである。

 最近の教育界では個別最適化という言葉が流行しているけれども、学校の場合には1時間目から6時間目までの時間割が学校によって(厳密に言えば文科省によって)決められているので、個別最適な勉強など絶対に不可能である。私は主体的に英語と日本語と話術の勉強をしたが、学校から押し付けられる化学や数学に、そりゃ意義はあるのは理解していたのだけれども、自分の人生に於いては意味を感じることができずにほとんど放置していた。おかげで高校3年間の定期考査でとった総点は惨憺たるものであった。けれども、それが私の人生にネガティブな作用を及ぼしたとは思えない。自分の勉強は自分で決めればよいのである。

 まずいのは、何も勉強せず、何も成長しないことである。何を勉強するのかと問われたときに胸を張って答えられるものがあれば何も問題はない。自分はこれを勉強してこういう人生を送るのだと言えるのであれば、通っている学校が全日制であれ、定時制であれ、通信制であれ、何の問題もない。

 勉強は素敵だ。自分のレベルを上げることができる。自分のレベルが上がると、ひと様を笑顔にしてあげられる。高1の一学期中間考査の数学が3点、化学が0点、日本史が25点だった私だが、アホのまま死にたくなかったので、高2あたりから勉強を開始した。英語と日本語に加え、歴史や哲学や心理学を勉強した。教員になってからは英語と話術を勉強した。教員を退職して絵本作家になりたかったので、57歳から絵の専門学校に通った。どんどん上手になっていくのがわかった。

 レベルが上がると、ひと様から声がかかり始めた。英語の勉強法を教えてくれと依頼が入り始めた。絵本を出すと、またぞろ声がかかった。私の話を聞いている人々が笑顔になってくださる。頷いてくださる。元気になりましたと声をかけてくださる。勉強をすると知らない人たちから声がかかるのだなとわかった。その点でも、勉強はやはり素敵だ。 

 東日本大震災で多くの人が家を失った。失意のどん底にいる人たちに話をしてやってもらえないかとの依頼が来たときは、自分でいいのかと戸惑った。仙台で、福島で、被災者の方々が涙を流しながら、頷きながら、私の話に耳を傾けてくださった。勉強してきてよかったなと、私も我知らず涙がこぼれた。同様の活動を沖縄でも始め、今も続けている。 

 あなたは何の勉強をするのだろう。そして誰を笑顔にするのだろう。高校時代の私と同様、今はレベルが低くて悩んでいる人もいるだろう。しかし、それは今まで勉強していなかっただけだ。これからやればいいのだ。何を勉強している時間が自分は幸せなのか考えることだ。あなたは勉強を通じて幸せに近づいていく。そして誰かを幸せにしてあげられる存在になっていく。 最後に、保護者の仕事はご自身もしっかり勉強し、子どもたちのモデルになることである。うちの親は凄い!子どもがそう思える存在になることだ。それ以外に親の仕事はない。


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