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沖縄の風に吹かれて 第9話

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三線前、三線後 ~どうせ儲けたいんでしょ

 僕はウチナーンチュではない。ばりばりの関西弁しか話せない奈良県出身、兵庫県在住のヤマトーンチュである。生粋の関西人が沖縄で2013年だったかにNPOおきなわ学びのネットワークを立ち上げたときは、興南、沖縄カトリック、首里高校、那覇高校、開邦高校、那覇国際高校といった学校の先生方が協力してくださったお陰で、思っていたよりもスムーズに事が運んだ。

 子どもたちの学力を上げませんかと呼びかけて立ち上げた同NPO。言うまでもないが、僕ひとりでは何もできない。ウチナーンチュの方々のご協力があってはじめて動き出せるというものである。僕は沖縄にずっといるわけではないからである。今は毎月一週間から十日ほど沖縄にいるけれども、立ち上げた当時は灘校の教員だったので、毎月行くことなど不可能で、行くにしても土日を利用してという程度であった。そんな僕がNPOを立ち上げたのだから、ウチナーンチュの先生方にお手数をおかけするより他ない。

 興南の我喜屋優先生(同校理事長)にお願いし、NPOの理事長に就任していただくことになった。興南を自由に使っていいよというお言葉を頂けたのはありがたかった。なにしろNPOである。カネ目当ての活動ではないので、収益はゼロ。生徒たちに英語や国語の勉強法を教えるとなれば公民館かどこかを借りねばならない。我喜屋先生のお言葉は本当にありがたかった。

我喜屋優先生と

 とても良い滑り出しだったのだけれども、気分のいいことばかりでなかったことは正直に書いておきたい。あるとき開催した勉強会に参加した県立高校の先生から、キムタツさんはなんだかんだ言って儲けたいんでしょと言われたことがある。面と向かって言われたので、ボクサーがいきなりカウンターパンチを食らったようで、体から力が抜けた。腹が立ったわけではない。強いて言えば、悲しくなった。

 沖縄って温かい人ばかりだなぁ、いい場所だなぁと思って、いい気になっていたのもある。調子に乗っているときにガツンと殴られた。どんな気持ちになったのか、想像していただきたい。興南の視聴覚教室で動けなくなった。勉強会は笑顔溢れる生徒たちでいっぱいだったのに、僕の気持ちは真っ暗になった。

夢をかなえる勉強会(興南高校の視聴覚教室)

 沖縄にはそんなふうに思う人もいるんだ。他県の場合とは違うんだ。現に福島でも広島でも活動を続けているが、そんな酷い言葉を投げかけられたことは一度もない。沖縄ではしかし、そう思う人がいる。僕に似た人たちが沖縄を使って儲けようとした過去があり、沖縄は搾取され利用されてきたということだろうか。キムタツ、お前もかと思われているということだろうか。

 その方に申し上げた。自分たちはNPO、つまり非営利団体であり、スタッフが自分のお金を出し合って子どもたちの指導をしているのだということ。中には東京や大阪や福岡から自腹で参加してくださっている先生方もおられるということ。寄付はありがたく受け取っているけれども、あなたが働く学校の生徒たちが全員僕の著作を買ってくださっても、僕に入る印税は片道の飛行機代にもならないということ。経済活動ではなく、沖縄の未来を創っている教育活動なのだということ。
 
 理解してくださり、謝ってもくださったのだけれども、どうにもやるせない気持ちが残ったのは言うまでもない。人間、カネがないとかハラが減ったとかいった悩みよりむしろ、頑張っているのにわかってもらえない苦しみほどつらいものはない。

 伊丹空港に向かう翌朝の飛行機の中で、どうすればいいのだろうと考えに考えた。多くの学校で講演活動をしているがカネなどもらったことはない。夢をかなえる勉強会はボランティア活動だ。なんとか沖縄の一部になろうと思い、かりゆしウェアを着用し、沖縄の言葉を覚えている。これ以上、僕に何ができるというのだろう。伊丹空港に着く頃には考えすぎてへとへとで、夜になってついに高い熱が出た。それでも考え続けた。

真剣に話を聞く沖縄の子どもたち

 翌日、40度の高熱を全身から発しながら僕はある場所へと向かった。大阪の天神橋筋六丁目にある三線ショップである。沖縄から移住された伊禮さんという方が経営されていることは彼のHPが教えてくれた。大学時代にギターを弾いていた僕は、三線を始めてみようと思い立ったのである。沖縄の人たちに「儲けたいんでしょ」と言われないためには、できるだけ沖縄の一部になるしかないと必死だった。一番安い三線を買った。教則本をくださった。簡単だよぉと、短い時間だったが店頭で簡単なレッスンをしてくださったのはありがたかった。

 年末、また興南高校の視聴覚教室をお借りし、夢をかなえる勉強会を開催した。200名ほどの生徒たちの前で、僕は「島唄」や「涙そうそう」を弾いた。生徒たちは静かに演奏を聴いてくれた。驚かれたのは先生方かもしれない。例の先生もいらっしゃっていた。三線、弾けるんですかと仰ったので、あなたがいいきっかけを与えてくださったんですとお答えした。嫌味ではありません。もっと努力する必要があるんだなと思ったのです、と。

 灘校の忘年会や保護者集会でも三線を披露し、拍手喝采をもらえるようになった。浦添の居酒屋では、壁にかかっている三線を弾かせてもらったところ、オリオンの生ビールを1杯無料にしてくださった。興南での保護者集会でも弾かせていただいた。多くの方々が目を細めてくださった。ある方が近づいてきてこう仰った。キムタツさんはウチナーンチュじゃないけど、ウチナーンチぐらいになったね、と。ぽろぽろと涙がこぼれた。


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