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情報統合思念体という身近な存在について(涼宮ハルヒの消失)

初めてハルヒを見た衝撃から5年経過した2022年6月。ようやく、ついに、『涼宮ハルヒの消失』を見た(遅
アマプラありがとう。※以下ネタバレあり

いつものようにハルヒに振り回される日常が続いていた12月のある日、突然ハルヒがいなくなった。というかキョン以外の世界軸が改変された世界が始まってしまったキョンはひどく動揺していた。
少しでも元の世界に戻る手がかりを探すキョン、、、

なぜ世界が変わってしまったのか。

ミスの無いコンピュータのようなアンドロイド長門が、これまでの観測において様々なバグをも蓄積していき、たまりにたまったバグによって世界を改変する挙動(エラー)を引き起こす。そこに長門の“感情”があったとかなかったとか…

一応自分で一通り鑑賞したのち、ネットに落ちてる考察をいくつか見る。長門の感情の内容がどういう内容なのかは置いといて、感情とエラーの蓄積という点について考察してみたい。

データの蓄積(記憶)によって、私たちは時間という概念を想起する。時間は物体として在るものではなく、何かと何かの間という概念。時間とは、これです、といって明示することができない代物だ。

情報を統合して思念するなにかという情報統合思念体という定義からして、<蓄積>という行為をしていることから当然<時間>という概念も想定しているのだろう。

それから記憶によって感情が生まれることも想定できただろう。

それらのバグを修正するプログラムだって当然持っていただろう。ある考察ブログでは長門のその修正プログラムはせいぜい100年くらいを想定していたが、エンドレスエイト(500年分?)もあってそのバグは相当なものになっていたはずというようなことも書かれていた。


人間の場合はせいぜい100年もすれば肉体が抹消される。

肉体の抹消が自然の修正プログラムなのだとすれば、高度に発達した知識体である情報統合思念体もしかしたら人間を見習った方がいいのかもしれない。情報統合思念体そのものはあたかも人知をこえた万能性を私たちに錯覚させるが、派閥の存在からは有機体であるところの人類とそんなにかわらねぇじゃねぇかとも思う。

情報統合思念体そのものは永遠に存在するのだろうが、インターフェース的なものとして顕在化させてしまったアンドロイドは適当なタイミングで抹消させなければならないのではないか。人間だって感情があろうがなかろうが適当なタイミングで抹消される。

情報統合思念体は実体を持たないものであり、光学的に観測はできない(らしい)。(だとしたら電子的に観測できそうな気がするが)

情報統合思念体は実体が無いもんだから、接触にあたっては物体的な移動をせずに同期という形をとる。ここは物体的な移動をする未来人朝比奈みくるとは違う。

同期について。
でもさ、これさ、既存人類だって情報統合思念体では?と思うわけですよ。

知識、データ、慣習、伝統のようなものって実体があるわけじゃない。それにアクセスした物体によって体現されているようなもので。

だから、私は例えば2000年前の書物を読んでその時代に同期しているといっても過言ではない。物体的な移動を伴ってないし。

情報統合思念体という存在に未来的な希望を持ってワクワクすることも可能であるが、今の私にとっては、そんなの既存人類と同じか、多少毛が生えた程度(一個体がアクセスかつ理解可能な情報量が既存人類よりも圧倒的に多いとか速いとかその程度)のものという見方ができて、案外それを真であると思い込んでしまっている。(頑固さ)

涼宮ハルヒの憂鬱を初めて見た2017年と今とで物の見方が変わってることがなんとなくわかった気がした。漫画も見てみたいような気がする。原作は小説のようだが、他のジャンルで活字読みまくってるので漫画でいいかしらね。

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