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<連載小説>昨日のような、明日を生きよう<14>

綾の冒険

 目の前をアリが通り過ぎていく。
 綾はそれを不思議そうに眺めていた。
 なんでこんなに小さいものがいるんだろう?
 昨日よりも、一昨日よりも、世界は不思議に満ちていた。
 一昨日は咲き誇るピンクの花を見た。それはハラハラと樹上から舞い落ちてきて、綾の鼻先に止まった。
 昨日は大声で叫んでいる人を見た。何を言っているのか綾には分からなかったが、何かに怒っているのだけは分かった。なぜ、そんなに怒ることがあるのだろう、おやつを取られたのかな、と思った。
 アリは芋虫の死骸を運ぼうとしているようだった。たくさんのアリが、自分の何倍もの大きさの虫を運んでいく。それこそアリの一歩かもしれないが、着実に前に進んでいる。
 じっと眺めていると、自分も小さなアリになった気分だ。屈んだまま、ちょこちょこと歩いていく。彼らの行き先に、穴があった。巣穴だった。
 そこからは大量のアリが出てきて、芋虫運びの手伝いをしている。アリの道はいくつかに分かれていて、一つは芋虫に、残りは他の道を作っていた。綾はもう一つの道を辿る。
 公園の端にある花壇にたどり着いた。
 そこには赤や黄色のチューリップが並んでいたが、綾はまだそれがどんな名前なのかを知らない。
 ただ、綺麗だな、可愛いな、という気持ちが芽生えたことで、胸の辺りがむずがゆく感じられた。幸せだとも、羨ましいともいえる、不思議な気持ちだった。
 その花壇の手前に、飴玉が落ちていた。誰かが食べていて、うっかり落としてしまったのだろう。その青い飴玉に、アリたちが群がっている。先ほどの芋虫より小さなそれは、何十匹ものアリたちによってゆっくりと運ばれていた。ゆっくりゆっくり、じれったくなるくらいののんびりさ。だけどそれはアリたちにとってはとても素早いスピードだったのだろう。
 しかし、綾にはそれは分からなかった。ただ、お手伝いしたいな、と思ったのだ。
 綾が飴をつまむ。そして巣穴の方まで持って行って穴の真上に落とした。
 巣穴がふさがり、突然の出来事にアリたちがパニックを引き起こす。
 飴にしがみついていたアリの一匹が、綾の指に噛みついた。
 痛い、そう思った時にはもう、涙が出ていた。
 視界が滲み、指先に黒いアリを見た途端、怖くなった。
 慌てて指を振り、アリを退ける。
 そして、声の限りに泣いた。自分の大変な状況を知らせるために、痛みを分かってもらうために。
 すぐに勇希が走ってきた。遠くから眺めていたのだが、泣き始めたことで急いで駆けつけてくる。
 しかし綾にはそれがスローモーションに見えた。まだ来てくれない、まだ来てくれない。それは行動になって表れる。
 綾が足を大きく上げ、振り下ろす。地団太を踏む。その下にはアリの巣があった。アリたちがいた。
 踏み潰され、アリたちが死ぬ。巣が壊れる。そのことを、綾は気にかけようとしない。それどころではない。
 次の瞬間、綾は勇希によって抱き上げられた。
 父親の胸に顔をうずめ、綾はしばらく泣いていた。
 アリたちは、何事も無かったかのように自分たちの仕事の続きを始めた。

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