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34歳で会社を辞めた男が ”SNS時代の政治家” になるまで。 ~周りを驚かした3つの決断~

これまでの人生で、どんなことに挑戦してきたか?
その時、なぜ挑戦することを決めたか?
周囲は何と言ったか?
挑戦の結果はどうだったか?

世の中にはたくさんの挑戦があり、挑戦の数だけ、物語がある。

2月、「挑戦力 挑む力 向き合う覚悟」という名の1冊の本が完成した。

著者は、周囲が驚き、時に心配さえするような大胆な挑戦を続ける、SNS時代の政治家 小野泰輔。

( ※ "SNS時代の政治家"と呼ばれる所以は、以前の記事で紹介した通りだ。)

今回、これまでの挑戦を振り返りながら、当時の心境、挑戦を決めた理由、決断後に妻から言われた言葉、賛否の声もあったあれこれ、今後の展望等、、本書の中で、その全てを本人に語ってもらった。

小野泰輔のこれまでのターニングポイントを見ると、本人の ”思い切った決断” が特徴的だ。

決断1
【34歳】恩師の誘いに応えて、すぐに会社を辞め、単身熊本へ。
→4年後、38歳の若さで熊本県副知事に就任。(熊本県史上最年少)

決断2
【46歳3ヶ月】「そうだ、都知事選出よう」

熊本県副知事の1年任期延長の相談を受ける中、都知事選出馬を決める。
→得票数4位という結果ではあったものの、約61万票を獲得するという快挙を達成

決断3
【46歳6ヶ月】「都から国へ!」

次期衆議院議員選挙に東京1区から出馬することを発表


東大卒業後、外資系コンサル企業に勤務していた当時34歳の小野氏が、この12年の間でとった“思い切った決断”、その代表的なものが3つあるが、最初のターニングポイントとなった決断にフォーカスを当ててご紹介しよう。

2007年、蒲島郁夫氏が熊本県知事選に当選した。

蒲島氏は、小野氏にとって東京大学法学部時代のゼミの恩師であり、その彼から「熊本の行政の仕事を手伝ってほしい」と誘われたことがすべての始まりだった。

小野氏自身は熊本出身というわけではなく、また当時、外資系コンサル企業に勤めていたにも関わらず、すぐに辞職し、妻を東京に残して単身熊本へ引っ越した。

給料は大幅ダウン。「なぜそこまでして熊本に」と周囲から言われたこともあったという。

最初の4年は「参与」と呼ばれる知事の補佐官としての役割を担い、その後、38歳という若さで熊本県の副知事に就任。そこから二期8年、参与時代を含めるとトータル12年間、くまモンの商標フリー化や川辺川ダム建設問題など、熊本県政を推進させた。

二期に渡り、知事/副知事としてタッグを組んだ蒲島氏と小野氏。

東大教授と生徒(ゼミ1期生)だった2人が、その約10年後、熊本の県政を行うことになるとは、周りはもちろん、当人さえ想像していなかったのではないだろうか。

ちなみに蒲島氏は、ハーバード大学で政治経済学の博士号を取得しており、東大法学部を卒業していない。これは東大法学部の教授としては異例中の異例で、蒲島氏本人が「当時の自分は異色の存在だった。学生も”この教授はどんな人物なんだろうか”と不審に思っていたに違いない」と話している。

本書の中では、「自分で考える」「現場に行く」「相手の期待値がどこにあるのかを見つけ出し、その期待値を超える」といった、小野氏が大切にしている蒲島氏からの教えについても語られており、また、巻頭言では蒲島氏本人からの思いの詰まった言葉が綴られている。

周りが驚く小野泰輔の行動の裏には、彼のポテンシャルや更なる飛躍に期待を寄せる多くの人々の熱い思いが存在していることが伝わってくる一冊でもある。

人々の期待が、小野氏を突き動かす原動力になっているのかもしれない。


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