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「めんどくさい読書」をしよう。

ネットでほぼなんでも情報が得られるようなこの時代に、本を作る意味はなんだろう。
AIがたいていのことに答えを与えてくれそうなこれからの時代に、読書という営みはどこまで必要なものだろう。

読書は、多くの人にとってかなり「めんどくさい」ものだ。
何万字という文章をただ読むのでさえ時間と労力がかかるのに、さらに本は私たちに頭の痛くなるような様々な難問や問題提起を投げかけてくる。

いままで正しいと思っていたものは、本当に正しいのか。
これから私たちは何を学んでいくべきなのか。

良い本ほど、そんな思いもよらなかったような難問を突きつけてきたりする。だから、良書ほど読むのが「めんどくさい」し「疲れる」。
(もちろんもっと軽くて身近な話題に終始する本もある。そういう本はそういう本でおもしろい)

手早く効率的に「おもしろさ」が手に入るこの時代に、なぜわざわざめんどくさくて疲れることをするのか。それは当然の疑問だ。

でも、こんな時代だからこそなのだ。
あらゆる情報が「楽に」手に入るこんな時代だからこそ、私たちは「めんどくさい読書」を提唱したい。なぜなら、この「めんどくさい」経験こそが、ネットやAIには決して作りだせない、人生を変えうる経験だと思うからだ。

ネットやSNSで得た「楽な」知識はいつの間にか体からこぼれ落ちてしまうけれど、読書を通じた「めんどくさい」学びは、心の奥底にこびりついてなかなか剥がれない。
その学びは人生の色んなシーンで思い起こされて、その度に「ああ、あの本に書いてあったのはこういうことだったのか」と様相を変えていったりする。

そうやって、自分なりの価値観や人生観というものができていく。
こういった経験は、若い時だけでなく、おとなになっても続けていくべき営みだと思う。

読書を通じてめんどくさい難問にじっくり向き合った人だけが経験できる、価値観や人生観の変容というものがあって、それは古今東西、人類がずっと続けてきた知的な営みであり、その営みがこれからも変わらずあり続けてほしいのだ。

読書好きの執着と笑われるかもしれない。
オワコンにしがみつく哀れな姿だと嘲笑されるかもしれない。

なら私たちは行動で示そう。
時代に合った読書の形を見出して、少しでも多くの人に感動を与えられるように提示していこう。

「めんどくさい読書」を経験した人にこそたどり着ける、幸福な未来があると信じて。



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