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映画#138『ライトハウス』

『ライトハウス』(”The Lighthouse”)

監督:ロバート・エガース
出演:ロバート・パティンソン、ウィレム・デフォー、他
製作会社:A24、リージェンシー・エンタープライズ、RTフィーチャーズ、パーツ&レイバー
配給:A24(米国)フォーカス・フィーチャーズ、ユニバーサル・ピクチャーズ(全世界)
公開:2019年10月18日(米国)2021年7月9日(日本)
上映時間:110分
製作国:アメリカ合衆国

Wikipediaより引用

【あらすじ】
1890年代、ニューイングランドの孤島に二人の灯台守がやって来る。彼らにはこれから四週間に渡って、灯台と島の管理を行う仕事が任されていた。だが、年かさのベテラン、トーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)と未経験の若者イーフレイム・ウィンズロー(ロバート・パティンソン)は、そりが合わずに初日から衝突を繰り返す。険悪な雰囲気の中、やってきた嵐のせいで二人は島に閉じ込められてしまう……。

Filmarksより抜粋

画像出典:映画.com

「狂気」と「欲望」……たったこの2文字だけで、今作『ライトハウス』を言い表すことができる。雷と、雨と、霧笛が鳴り響く絶海の孤島で、果たして狂気にのまれずにいられるか?そこで欲望を完全に捨て去り、生きることなど可能なのか?例えその先に、絶えぬ苦しみに満ちた神々の裁きが待っていようとも……。

『ウィッチ』『ノースマン 導かれし復讐者』を手がけた、鬼才ロバート・エガースが監督を、『THE BATMAN -ザ・バットマン-』のロバート・パティンソン、『永遠の門 ゴッホの見た未来』のウィレム・デフォーの2人が主演を務める。


多くの考察にて語られている通り、この映画はある種一つの「御伽噺」である。この映画で起こる出来事のほぼ全ては空想の産物であり、抽象的な表現が多く用いられている。

あらすじとしては「絶海の孤島にて、嵐によって閉じ込められた灯台守の男2人が徐々に狂気にのまれていく」というシンプルなものだが、本編はそうもいかない………モノクロの映像に真四角の画角に劇中ずっと鳴り響く霧笛の音、それだけで我々観客の気が滅入っていくのにも関わらず、そこに所謂スピリチュアル的な表現も加わり脳みそが更なる混乱へと陥っていく。

代表例として挙げられるのは「人魚」や「神話」の描写だろう………「セイレーン」「マーメイド」などと言われる人魚は「海の誘惑」の象徴として描かれ、若い灯台守イーフレイム・ウィンズロー(本名はトーマス・ハワード(通称:トミー))を徐々に欲望の海へと引き摺り込んでいく。

「罪を裁くもの」と「罪を犯したもの」の対比。

一方、今作の随所随所では神話の内容を模したシーン………特にギリシャ神話をモチーフにした場面が多数登場する。主神ゼウスから「火」を盗み人類に分け与えたことで鳥に内臓を喰われ続ける罰を受けた「プロメテウス」の伝説や、ありとあらゆるものに姿を変え人々に預言をもたらすポセイドンの息子「プロテウス」の伝説など、予備知識がなければ何のこっちゃと混乱必須なシーンが数多く存在する。

かく言う私も解説を見なければ全く気づかなかった為、最初から全て見抜けた人は果たして存在するのだろうかと疑いたくなってしまう。


と、ここまでベラベラと語ってきたわけだが、今作のミソとなるのはやはり男2人が狂っていく様だろう。横柄な老人トーマス・ウエイク(通称:トム)に雑用としてこき使われる日々を送るトミー、この時点で彼の精神は崩壊寸前だ。だが、トムの「海鳥を殺してはいけない」という忠告を破ったトミーは海鳥を怒りのままに殺し、その罰だと言わんばかりに孤島は嵐に包まれる。

ここからが「本当の」狂気の始まりだ………勤務初日に拾った人魚の人形を使って自慰行為をしだすトミー。酒を浴びるように飲んでダンスしてキスしようとして殴り合いしはじめる2人。しまいには酒が切れたからといって、まさかの灯油を飲み始める2人………

狂気じみているのに、どこか清々しさを感じてしまうのは何故だろうか。

表情、言動、演出、その全てに狂気が満ちた、圧巻にして怒涛のシークエンス。これを観ればきっと、予告にも流れた『Doodle Let Me Go』のメロディが頭に染み付いて離れなくなる………観ているこっちも気が狂いそうだ。映画館で観ていたらどうなっていただろうか………想像しただけでもゾッとする。


今見ているものが現実のものなのか、あるいはトミーの生み出した想像の産物なのか。そもそも、今作『ライトハウス』にて起こる事象が全て架空のものであることを裏付ける証拠はいくつもある。

湧き出る水は飲めないほどに汚染されているのにも関わらず、なぜ食卓には美味しそうな料理が置いてあるのか?そもそも、何故前任の灯台守がいたのにも関わらず汚れたままなのか?考えれば考えるほどに、この物語自体が嘘っぱちである理由が次々と湧き出てくる。

これは他の方が考察で語っていた通説なのだが、この物語は「トミーに課せられた試練なのではないか」というものだ。劇中、カナダで木こりをしていた時に、ついカッとなって上司………本当のイーフレイム・ウィンズローを殺害し、その業から逃れ新たな人生を歩むべく灯台守へ転職したと語るトミー。

しかしトムはその後「この島自体がお前の想像の産物なのかもな。本当のお前はまだカナダの森の中にいて、膝まで雪に埋もれて震えているのかもしれない」とトミーに語る。

劇中ではあくまでも例え話として語られるわけだが、もしもこれが本当だとすれば?そうすれば島で起こる摩訶不思議な現象も全てカタが付く。トムは「海の老人」であり、ポセイドンの息子である「プロテウス」であり、トミーが罪を贖うことができるのかを試す試験官でもあるのだ。

2人の関係性はまさに「罪を裁くものと、罪を犯したもの」。

つまりこの島は天国と地獄の間………所謂「煉獄」のような場所であり、ありとあらゆる「欲望」が迫り来る中で、トミーが救われるのか否かが決められる。

だがしかし、最初はうまく自制を効かせ労働に励んでいたトミーだったが、終盤になるにつれてそのボーダーラインは決壊。人魚の人形を使って自慰行為に耽り、タブーである海鳥殺しを「意味もなく」行い、アルコール中毒の症状が出るほどに酒を飲み続け………

先述したトミーの罪の独白も、よく聞いてみると彼は一度も自らの行いを悔い改めていない。殺人という罪を「あれは事故だった」と誤魔化しているし、触れざる過去を口走ったのも後悔の念からではなく、ただ単に「吐き出して楽になりたかったから」に違いない。

トミーは所謂「ダメ人間」の具現化なのかもしれない。序盤にて懸命に働いていた姿も実は嘘で、本当はグズで仕事もマトモにできない、勤務中に自慰行為に耽り出す不真面目な人物だった可能性も捨て切れない。


果てにはトムまでも殺め、欲望の象徴である「灯台」の灯室へと足を踏み入れるトミー。招かれるように灯室のライトの中身を見て絶叫し、そして最後は「プロメテウス」と同じく、海鳥によって永遠に内臓を貪られ続ける罰を受けることになった、と………。

だが、果たして灯の中には何があったのか?この疑問にエガース監督は「想像にお任せします。ただ一つ言えるのは、これを知ってしまうと貴方もトミーと同じ末路を辿ってしまうことです」と語った。

「ただ単に光の熱が熱すぎた」「贖罪の道を絶ってまでトミーがたどり着いたのは「カラッポの」欲望だった」などその解釈は多岐に渡るが、果たして灯台とは「何の」欲望の象徴だったのだろうか。私個人の解釈を述べるとすればそれは「温もり」だ。

トミーが本当にいる場所………それがカナダの森の中だろうと嵐が吹き荒れる絶海の孤島だろうと、トミーは「温かみ」を欲していたのだと思う。それも純粋なる温度ではなく、人の温もり………罪を赦し、温かい抱擁をしてくれる人を、トミーは”身勝手にも”求めていたと思われる(抱擁を求めた対象がトムだったのか人魚だったのかは定かではないが)。

トムの灯室に対する異常なまでの執着心も、ある意味神話における神のエゴイズムを暗喩したものなのかもしれない。

確かなのは、トミーはどこまでも身勝手な人間だったということ。罪を贖おうともせず、自らの震えを止めてくれる、あるいは罪を赦してくれる「温もり」を欲していたのだ。だが言い換えれば、トミーはどこまでも身勝手なのと同時に非常に人間らしい人物でもあったのだろうと思う。

身を震わせながらもがき苦しむ中で、温かみを求めない人間など果たして存在するだろうか。それが例え条理に反していたとしても、関係なしに求めてしまうのが人間の性だ。

飽くなき欲望を追い求め続け、遂に灯台という温もりに辿り着いたトミー、絶叫しながらも顔に浮かべる表情は恍惚としている………この時のトミーの表情は、間違いなく本編中で一番幸せそうな顔を浮かべていたことだろう。ここで彼は自らが望んでいたもの………「温もり」という欲望「そのもの」に直に触れることとなる。

望んでいたものを遂に手に入れることができた!!嗚呼、何て幸せなんだ!!そう思ったのも束の間、灯室から転げ落ち「プロメテウス」と同じ運命を辿ることとなってしまったのである。どこまでも人間らしいトミーは神の啓示を無視してまで己の欲望に従い続けたが、その末路は神の怒りに触れ神罰が下されるという悲惨極まりないものだった。

身勝手に生きることの愚かさ、神に背くことの恐ろしさ………そういう意味では、今作『ライトハウス』は一種の教養的な映画なのかもしれない。



他にも、劇中においてサシャ・シュナイダーの『催眠』という絵画を模したカットが仕込まれていたり、トムのいう「海鳥殺しは不吉だ」という言葉は英国の詩人サミュエル・テイラー・コールリッジによる『老水夫行』がモチーフとなっていたり………先述した神話のエピソードも含め、この映画を初見で完璧に楽しむには相当の予備知識が必要だ(というか果たして1回目で全て理解できた人は存在するのか………?)。

故にこの映画を完璧に楽しむためには、最低でも2回は鑑賞しないといけないということになる。しかし今作は中々気軽に観れる映画とは言い難い………私も部屋を真っ暗にした上でカーテンを閉め、あらかじめ雰囲気を作り出してから鑑賞に臨んだのだが、それがまぁ〜〜〜怖かった。途中で耐え切れずカーテンを半分開け出したなんて誰にも言えない。

モノクロで陰鬱でダークな雰囲気全開の今作において、一際異彩を放っていたのはやはりウィレム・デフォーとロバート・パティンソンの怪演っぷりだろう。2人とも超がつくほどの実力派俳優だが、その演技力はまさに「狂気」そのもの。

「お前の作る飯は不味いんだよ!!」と訴えるトミーに対し、呪詛とも呼べるほどの怨嗟の言葉を連ねるトムのシーンなんかは本当に迫力が凄まじい(よく見てみるとトム(ウィレム・デフォー)は一度も瞬きをしていない)。彼は本当にこういう役………特に悪役は絶対に外さないよなぁ、と密かに感心。

最近では『ザ・バットマン』にて「病んだブルース・ウェイン/バットマン」を完璧に演じ切り、一躍話題となったロバート・パティンソンも、今作ではウィレムに引けを取らないほどの狂気を振り撒いていた。神からの試練を課された彼が、徐々に欲望の渦へ飲み込まれていく様は必見だ。


大抵のモノクロ映画は観客に映像の中の色彩を想像させるものだが、今作はそういったものが一切ない………というより、例えこの映画に色をつけたとしても依然としてモノクロなんだろうなぁと。

兎にも角にも、今まで長らく映画を観てきて感じたものとは全く異なる感想を抱かせてくれたのが今作だ。数日間、今作のことが頭から一切離れないほどに衝撃的で………そして同時に、今作を手がけたロバート・エガースの虜になってしまったのもまた事実。これはデビュー作の『ウィッチ』や、今後の監督作品にも注目していかねば。

では最後に、この文章を添えて………。

「蒼白き死がいや増す恐怖で、我らを大海の洞に眠らせる時、神は荒れ狂う波間で、哀願する魂を救いたもう」

それではまた、次の映画にて。

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