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なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか①

私は戦争に反対だ。昨今のウクライナ・ロシア間の戦争はもちろん、現在の世界全体で行われている全ての武力衝突が、遠い未来には武力によらず平和的に解決することを心から祈っている。

しかし題名で「私たち」と鉤括弧で表示したように、私は戦争反対を素朴に、「道徳的」な観点から訴えている人に対して賛成の意を表したいわけでは決してない。いや、結論としては、彼らと同じ政治信条を告白することになるかもしれないが、私は「私たち」という言葉を用いることで、私同様、もはや素朴に「戦争反対」などという言葉を叫ぶことができなくなってしまった人間、こうした言葉を聞く度に、「そもそもなぜ戦争はいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないのか」、そして「なぜ私は殺されてはいけないのか」という途方もない疑問の前で呆然と立ち尽くすしかない人間、私たちの「本能」とでもいったものが私たちに有無を言わさぬ力で、「それは『絶対悪』だから存在してはいけないのだ」と評価させるような物事に対してすら、ぎりぎりのところで判断を保留してしまうような人間、そうした人間を念頭に置いている。

よってそもそもこのような疑問を今回のウクライナ侵攻のような事件に際して、一切抱くことのない人間にとっては、そもそもこんな記事は有害こそすれ、何の利益ももたらさないだろう。そのような人間にとって、今回の侵略国ロシアは明らかに悪であり(「ロシア人自体が悪であるわけではない」といった譲歩をこのような主張に加えたい人がいても構わない)、ウクライナは支援されるべき存在であり、さらに戦争自体も明らかに悪であるか、少なくとも「必要悪」である。これはア・プリオリに決定された事実というわけだ。

承知の通り、自分や他人の信念に対する懐疑を多少でも行えば、このような素朴な「道徳的」判断はその実なんの絶対的な根拠も持っていないことは自明である。平和や民主主義を擁護できる根拠をどれだけ無限に挙げていっても、戦争や権威主義体制を擁護できる根拠も可能性としては無限に挙げていけるだろう(ニーチェが畜群道徳の代わりに強者道徳を手を替え品を替え唱えたように)。よって何が正義であるかは常に「訂正可能性」を秘めているのであり、その「訂正可能性」を無意識に、あるいは意識的に中断する場合に、「戦争は間違っている」「ウクライナは悪だ」、あるいは「ロシアこそ正義なのだ」といった判断が導かれるのだ。このことを感受しない人間には哲学的感性というものが根本的に欠けているし、意識的にこのことを無視する人間を反知性主義と呼んでも差し支えないだろう(もちろん『では、そもそも反知性主義ではなぜいけないのか』という問いに対しても『私たち』は常に開かれていなければ『いけない』だろうが)。

このような、ともすれば「逆張り」「露悪主義」「世間離れした抽象論」と非難されがちな主張に対する代表的な批判として、次のようなものが挙げられるのではないか(私も、私へ向けてではないが実際に聞いたことがある)。それは、「ではあなたが実際に戦場へ赴いて戦ったらどうなのだろうか」といったものだ。しかし上のような批判は三つの観点から、少々的外れだと言わざるを得ない。

まず第一に、上に挙げたような批判をする人間は、「もちろ私はこれから戦場へ向かいたいと思う。戦争というものは肯定されるべきものなのだから」といったような返事が存在する可能性などどうせ無いと高を括っている。しかし仮にそのように主張する人間がいたらどうするのか。また増えてきたらどうするのか。そうした事態の可能性を一切考慮しない場合、社会の大多数が戦争を肯定的に捉え、しかも主体的に戦場へ向かおうといった事態に対して、彼らは徹底的に無力である。

二つ目に、この批判に対して、「もちろん私は怪我をしたくないし、死にたくもないから戦場に行くのは真っ平だ。しかし、私以外の人間が戦場へ向かって戦闘を行うことについては賛成だ」と返される可能性も彼らは黙殺しているのである。確かに、そのような返答が、およそ「自分を例外として扱ってはいけない」という道徳の黄金律が未だに通用している社会ならば受け入れられない場合がほとんどだろう。しかし、哲学者の永井均が主張するように、そもそも「自分を例外として扱ってはいけない」ということがまず議論されて確定されなければいけない道徳の一つなのだから、上に挙げたような批判にも実は確たる絶対的な根拠が存在しないことになる。

三つ目は、そのような批判を行う人間は、「人は自分の立場自体を掘り崩すような態度表明を行ってはいけない。もし行っているのならそれは自己矛盾である」という、これまた未証明の道徳率を暗黙の了解としていることである。つまり、上の一つ目と二つ目とは異なり、「私は戦場に行きたくないし、私だけを例外視して他人だけが戦場に向かえばいいとも思わない。さらに言えば戦争自体にも個人的には反対だ。しかしそのことから、なぜそもそも戦争がいけないのかについては『知らない』」し、もっと言えば実は戦争というものは『よい』ものなのではないだろうか?」と答えてしまう人間がいる可能性も排除している。上の二つよりもこの最後の問題の方が私はより根源的な問題だと感じる。つまり、何らかの社会制度が私たちは現に幸福にしており生命や財産を保護しているということから、しかしその社会制度には一体どのような「価値」があるのかという問いが(稀ではあれ)生じてしまう事態を、実は誰も止められないのである。

しかし、それにも関わらず、私はやはり「戦争には反対だ」という主張を、少なくとも公共空間では発し続けるだろうし、私と同じように、上に挙げられた疑問を嫌でも感じざるを得ない人間にも、「戦争反対」というスローガンを是非とも掲げてほしいと思っているのだ。当然、私はもはや私の行動理由を絶対的に基礎付ける道徳率など持てない。しかしそれでもある程度妥当だと言えるような当為を掲げることはできると思うし、私に同調してくれる人が増えることを願っている。そして当然のことだが、そのような当為は、もはや上に述べられたような素朴な民主主義擁護の言説やヒューマニズムとは色合いを異にするだろう。では、なぜ「戦争反対」と訴えることが大事なのかを述べよう。

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