Kimiro

批評家。毎週火曜日と木曜日に記事を更新します。

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最近の記事

書評1『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』 死の絶対的な救いようの無さとは何か

 最近、高村知也の『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』を読んだ。永井均がTwitterで称賛していたのと、筆者と同じように私も、「死をどうしても受け入れることができない」タイプの人間だったこともあり、興味が沸いて手に取ってみたのだ(しかし、筆者と違って私は、日常生活に支障をきたすほど死を真剣に恐れてはいない)。  ある程度楽しめる内容だった、というのが率直な感想である。特に、「死」を「よく知られた、馴染みのある、安心できる、正気でいられる価値観の中に丸め込もうとする」

    • 新しい神としてのAI

       近頃のAIの発展は、素人である私ですら、目を見張るものだと感じる。いわゆる「シンギュラリティ」の到来や、AIが人間と同じような自己意識を持つ未来もそう遠い話ではないのかもしれない。そこまで大げさなことが起きないにせよ、このテクノロジーが社会・産業構造を変化させるだけでなく、新しい思想の形を提供する可能性は非常に高いだろう。  願わくば、AIがもたらす新たな人文知が、人間中心主義や主観性の形而上学、あるいはそれと結びついたナショナリズム等のオルターナティブとして機能せんこと

      • なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか③ ニヒリズムの徹底化としての平和

        さて、「戦争反対」といった特定の政治的立場が、それも極めて凡庸で、手垢に満ちたこのような主張が、なぜニーチェ哲学から援用することが出来るのかを述べよう。 一見これは極めて無理難題な試みであるかのように見える。いや、ニーチェ哲学の最悪な形での受容とも言えるのではないだろうか。そもそも哲学書から何らかの政治的主張や道徳的な教訓を引き出すこと自体が邪道で三流であるとよく言われるが、私も概ね賛成である。ましてや、平和の裡にぬくぬくと安眠を貪る畜群を常に告発し、これまでの思想や宗教に

        • なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか② 「形式」としての自由と平和

          前回の記事で述べた、戦争反対を訴えることに躊躇してしまう人間へ向けられたよくある批判に対する批判への、再批判を述べる。現時点で私が述べることの出来る再批判は、二つある。一つは、「平和」や「自由」といった状態は、それ自体で何か肯定されるべき内容なのではなく、それらの状態はあくまで社会の「形式」として肯定され得ると言う意見だ。二つ目は、ニーチェ哲学を援用する形になるが、「平和」や「自由」は、ニヒリズムの徹底化という点で肯定され得るという意見だ。 まず一つ目の意見を詳しく説明する

        書評1『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』 死の絶対的な救いようの無さとは何か

        • 新しい神としてのAI

        • なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか③ ニヒリズムの徹底化としての平和

        • なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか② 「形式」としての自由と平和

          なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか①

          私は戦争に反対だ。昨今のウクライナ・ロシア間の戦争はもちろん、現在の世界全体で行われている全ての武力衝突が、遠い未来には武力によらず平和的に解決することを心から祈っている。 しかし題名で「私たち」と鉤括弧で表示したように、私は戦争反対を素朴に、「道徳的」な観点から訴えている人に対して賛成の意を表したいわけでは決してない。いや、結論としては、彼らと同じ政治信条を告白することになるかもしれないが、私は「私たち」という言葉を用いることで、私同様、もはや素朴に「戦争反対」などという

          なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか①

          「この世界は弱肉強食だ」といった言説がなぜルサンチマン的であるのか

          社会的強者から社会的弱者に対する攻撃(特に言説における攻撃)が、昨今では常にどこか強者の皮肉や冷笑、自虐心を孕んだものになってしまっているのはなぜだろうか。もっといえば彼らの社会的弱者に対する攻撃には奇妙なことに「復讐」の趣さえ潜んでいないだろうか?これは次のようなことが原因だと思う。 社会的階級というものが軒並み破壊され、民主主義社会に移行していくにつれ、人間には生まれつき優劣があり、その優劣に対照する形で「階級」というものが決定されていたこと(ここでいう「階級」は社会的

          「この世界は弱肉強食だ」といった言説がなぜルサンチマン的であるのか