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新しい神としてのAI

 近頃のAIの発展は、素人である私ですら、目を見張るものだと感じる。いわゆる「シンギュラリティ」の到来や、AIが人間と同じような自己意識を持つ未来もそう遠い話ではないのかもしれない。そこまで大げさなことが起きないにせよ、このテクノロジーが社会・産業構造を変化させるだけでなく、新しい思想の形を提供する可能性は非常に高いだろう。

 願わくば、AIがもたらす新たな人文知が、人間中心主義や主観性の形而上学、あるいはそれと結びついたナショナリズム等のオルターナティブとして機能せんことを。しかし、やはりと言うべきか、むしろこの新しいテクノロジーが古い理想を温存することに一役買っているのが現状である。

「進歩」や「理性の勝利」といった言葉がまたしても幅を利かせるようになった。どうやら「完全な知性であるAIが不完全な知性である人間に取って代わる」らしい。ここには、AI(客観的・没価値的・超パースペクティヴ的・普遍的・真理)対人間(主観的・価値判断を行ってしまう・パースペクティヴに囚われた・局所的・非真理)といった対立構造が前提となっている。そして、AIの発達によって、ついに我々は人間という肉体の枷から解き放たれ、広大な真理の渦に飛び込むことが可能になるというのだ。

 こうした想定が正しいのだとしよう。しかし、そうした未来を今よりも「より優れた」状況であると判断するのは一体誰なのか?答えは明らかであり、それは私たち人間である。未発達の人間が発達したAIによって実質的に駆逐されようとも、そうした状況を肯定する視点は結局私たち人間のパースペクティヴに過ぎない。そのような意味で、今日のAIの発展状況を嘆こうが、賞賛しようが、それはどこまでも人間の独り相撲である。しかし、重要なのはむしろ次の点である。AIは我々が崇めてきた「神」(絶対的だと思われてきた真理や諸価値)を殺すだろうか?あるいはこれも、「神の影」でしかないのだろうか。この答えも明らかであろう。AIは少なくとも現時点では「神の影」に過ぎない。なぜなら、絶対的なものに帰依したいという人間の太古からの欲求に、新しい装いをもって応えようとしているのが、まさに現在のAIだからである。

 そうであるならば、この新しいテクノジーは社会の古い迷妄を解消するどころか、むしろ新しい神として、あるいは新しい信仰としての役割を演じることになるだろう。AIに全身全霊で熱狂する人々の目をよく見るといい。「客観的なもの」の登場を待望する彼らの目は、なんと敬虔な信心家のそれと似通っていることだろう。彼らを眺めていると、次のような疑問を抱かずにはいられない。いわゆる「シンギュラリティ」というものも、新しい装いをした「最後の審判」にしか過ぎないのではないか?と。「そこに辿り着けば、これまでの我々の迷妄は全て消えて、人類が達成してきた物事など、絶対的な神の裁きの前には無に等しい」。これが終末論のレトリックだが、「シンギュラリティ」はこれと違うのだと本当に言えるのだろうか?

 AIがもてはやされる際の、己と他人の「人間的・あまりに人間的な」特徴を敵視し嘲笑しようという欲望や、人間としての己を否定することで、他の人間と比べた時の己を逆説的に肯定しようとするメンタリティなどは、ルサンチマンと結びついているのではないだろうか?ルサンチマンが、道徳といったイデオロギーを用いて自分を否定しておきながら、そのイデオロギーによってどこかで自分を肯定しているというダブルスタンダードであるように、AIを用いて人間を嘲笑しておきながら他の人間に対する自身の優越感を確保するというダブルスタンダードが、ここにも存在していると言えないだろうか?AI礼賛の背後には、「神の前で首を垂れている謙虚な自分こそ素晴らしい」というキリスト教道徳とパラレルな、ルサンチマンと結びついたイデオロギーが隠れているのではないか?

 「神の影」としてではなく「神殺しの武器」として、AIを利用することはどのようにして可能かを明らかにしなければいけない。古い時代に別れを告げて新しい時代を歓迎することは、その後である。



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