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「この世界は弱肉強食だ」といった言説がなぜルサンチマン的であるのか

社会的強者から社会的弱者に対する攻撃(特に言説における攻撃)が、昨今では常にどこか強者の皮肉や冷笑、自虐心を孕んだものになってしまっているのはなぜだろうか。もっといえば彼らの社会的弱者に対する攻撃には奇妙なことに「復讐」の趣さえ潜んでいないだろうか?これは次のようなことが原因だと思う。

社会的階級というものが軒並み破壊され、民主主義社会に移行していくにつれ、人間には生まれつき優劣があり、その優劣に対照する形で「階級」というものが決定されていたこと(ここでいう「階級」は社会的階級と常に一致していたわけではないだろう)、その優劣をかつての人間は、たとえ彼が社会的弱者であれ強者であれ、決して取り外せるものだとは、また取り外すべきだとも思っておらず、そうした「階級」という己に定められた運命に対する畏敬の念さえ感じていたこと、このことが忘れさられたのである。

もはや人は、他人が己よりも生まれつき優れているということに「道徳的」憤懣を覚えるようになった(昨今でも「ギフテッド」と呼ばれる人間が一定の尊敬心を獲得しているではないか、といったことは反論にならない。彼ら「ギフテッド」の弱者からの扱われ方をよく見てほしい。彼らはあくまで「例外中の例外」であり、さらに重要なことは、実は弱者たちは彼ら「ギフテッド」たちを極めて無害なものに、あるいは、自分達にとって愛おしく、利用できる存在としてしか受け入れていない。「ギフテッド」が己を誇り、弱者たちに危害を加え、またそうした「ギフテッド」達をより多く育成する機関などの必要性を誰かが説こうものならば、たちまち多数弱者の彼らは「ギフテッド」を「道徳的」に非難し始めるだろう。その後、「ギフテッド」という言葉自体が道徳的な呪いを込めたものとして流通することが考えられる。)

彼ら弱者からすれば他人が何らかの点で己より優れていることなど考えられない。仮に優れているのだとしたら、せめて彼ら強者が道徳的でいてもらわなければもはや耐えられない。よって強者が自分達弱者には許された、非道徳的なことを実施しようものならこれを滅ぼすことは許されている。こうした弱者の判断から何が生まれたか。

ああ!強者はこんな弱者のルサンチマンを真に受ける必要などなかったのだ。しかしそれは結局不可能だっただろう。弱者の方が常に多く、例外者である強者からすれば、民主主義社会においては、自分は常に弱者に囲まれているからだ。強者は己の才能を良心の呵責なしでは捉えることはもはやできない。自分はそのような強さや特権をそもそも持って生まれてくるべきではなかったのだし、持って生まれてきてしまったからには、せめて道徳的に、弱者の復讐感情を刺激することなく、その力を弱者のために使わなければいけない。そうすることで私が強者として生まれてきてしまった原罪はいずれ償われるだろう。こうした感情を強者は覚え込んでしまった。

しかし、たとえ弱者のために己の才能を捧げようと、弱者から完全にその存在を「許される」わけではない。復讐を受ける危険性は常にあるし、たとえ常に注意深くあっても、弱者からの不合理な要求は思わぬ形で強者へ牙を剥く。それはあたかも犯罪者が、罪を清算した後も、社会から冷遇されるのと同じである。強者は鬱憤を抱え出す。「何かがおかしい」。なぜ自分が不利な立場にいなければいけないのか。なぜ凡庸なもの、弱いものこそ甘い汁を吸っているのか。なぜ常に弱者達に謙らなければいけないのだろう、等々と。そうして彼はこう判断する。

「そうだ!自分が追い詰められていたのは私自身の罪によるからではなく、私が強者であるが故に、弱者からの復讐を被っていたからなのだ!弱肉強食というこの世の掟に逆らって生意気にも攻撃を仕掛けてきた弱者にこそ責を負わせるべきなのだ!そうだ、いかにもこの世界は「弱肉強食」ではないか!もはや私は「非道徳的」に生きよう!」と。

ああ、彼がこの世界を「弱肉強食」だと判断したのは極めて正しい。しかし実はもうこの時、彼が叫んだ「弱肉強食」という言葉、また弱者の耳に届く時の同じ「弱肉強食」という言葉には、もはや全く違う、これまでには存在していなかったニュアンスが与えられているのだ。

「弱肉強食」というものは、この世の一面を的確に捉えた真理であって、その言葉自体にはいかなる道徳的な要素はない。しかしこの言葉は、復讐に燃える多数弱者が強者に勝利していくにつれ、決して許されてはいけない言葉、悪魔の言葉として捉え返された。この言葉に込められたそうした弱者の価値観上の「上に」、いわばそこにまた価値感情を塗り直すように、今や強者によって「弱肉強食」が唱えられている。つまり、ここには「復讐に対する復讐」という価値感情が潜んでいる。それは依然として復讐であり、反動であり、受動的な価値感情である。この言葉は今や、復讐を受けるべき弱者へ向けて、弱者の憤懣を「期待」して、弱者に依存して発せられる。つまりそれは多数弱者への、更にはその多数弱者が占めるこの世界への復讐である。

もはやこの世界を「弱肉強食」と捉え、それを弱者へ向けて発するという行為は、現に存在するこの世界の、そして運命の否定であり、ニヒリズムである。「弱肉強食」という晴朗な真理は取り返しのつかないほど汚染されてしまった。そしてこの汚染の原因が、弱者の復讐感情に端を発することは間違いないが、それに対する強者の復讐感情も、「生成の無垢」を損ねることに加担してしまった。

つまり、まず一つの倒錯がある。弱者こそ道徳的であり、強者は非道徳的であるという判断がそれである。そして二つ目の倒錯は、「道徳的な弱者など滅んでしまえ」、「強者は非道徳であろうではないか」、という倒錯である。これは一つ目の倒錯をさらに捻ったものであるに過ぎない。弱者も強者も倒錯以前の「無垢」には達せていない。

というのも、強いことに越したことは無く、弱さは誰にとっても避けるべきであるという、未だ反動でなかった自然的な徳が、ほとんど純粋な自然観察と近しい形で言い表されていたのが、「弱肉強食」という言葉だったからだ。だから、強者は非道徳的である必要すらないのだ。道徳的・非道徳的という弱者の価値判断の土俵で弱者に勝負する必要などなかった。そして、この晴朗な真理に私たちが「留まろう」としなかったことに、そしてそれは第一に弱者にその責めが着せられるのだが、全ての原因があるのだ。

弱肉強食というこの晴朗な真理を弱者が汚し価値転換を図った。そしてその価値転換を行った弱者に対して、彼らの価値転換へそのまま上書きする形で、新たな価値転換か、あるいはその価値転換に基づいた実際の行動を手段として、強者は弱者に復讐を行う。弱者も強者も己を誤解し続ける。

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