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なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか③ ニヒリズムの徹底化としての平和

さて、「戦争反対」といった特定の政治的立場が、それも極めて凡庸で、手垢に満ちたこのような主張が、なぜニーチェ哲学から援用することが出来るのかを述べよう。

一見これは極めて無理難題な試みであるかのように見える。いや、ニーチェ哲学の最悪な形での受容とも言えるのではないだろうか。そもそも哲学書から何らかの政治的主張や道徳的な教訓を引き出すこと自体が邪道で三流であるとよく言われるが、私も概ね賛成である。ましてや、平和の裡にぬくぬくと安眠を貪る畜群を常に告発し、これまでの思想や宗教には争いを何としてでも避けようとする暗黙の了解が常に潜んでいたことを絶えず批判し続けてきたニーチェの哲学から、一体どのように「『私たち』は戦争に反対だ」などといった主張を導き出せると言うのだろうか。

まず一つ目の、「哲学書から何らかの政治的な主張を引き出すような軽率な真似はなるべく慎むべきである」という批判に関してだが、私は上に述べたように、こうした意見に対して非常に共感を感じつつも、同時にそうした批判に完全に満足することもできない。というのも当然だが、「哲学書を非政治的に、没世間的に読解しよう」という態度自体も極めて「政治的」だからだ。上のような批判を行う者は、ある意味では自分たちもニーチェ哲学から政治的・道徳的な主張(「私たちはある思想家を、特にニーチェの哲学を内在的に理解するべきである」といった)を導き出しているにも関わらず、自分たちの立場を無根拠に特権化していると言えるだろう。

更に言えば、仮にある哲学書から政治的な主張を引き出すような行為の際に深刻な「誤読」や「曲解」があろうとも、テキスト=真理に誠実であらねばならないという価値自体にはどんな価値があるのかという問いこそ、ニーチェが我々に投げかけたものである以上、ニーチェの読解という場面に関しては、彼のテキストに没主観的に埋没して解剖をする行為と、彼の思想を薄めるにしろ曲解するにしろ自分の「生」を促進するために受容する行為との間に、道徳的な優劣が存在することはもはやあり得ないであろう。そうであるならば、ニーチェ哲学から、ナチズムを肯定するようなものであろうと、あるいは民主主義を擁護するようなものであろうと、いわば「何でもあり」な解釈が無限に生まれることを止める権利は誰にも無いのだ。ただ、私は以下の文章でニーチェ哲学の(極めて恣意的ではあるだろうが)「何でもあり」な解釈を実践したという意識はない。そこは読者の判断に委ねよう。

二つ目の、「そもそもニーチェこそ、『戦争反対』といった一見極めて普遍的に聞こえる道徳律のイデオロギー性を暴露した哲学者だったのではないのか」という批判に関しては、その通りだと言うしかない。現代において普遍的であると見なされやすい「人権」「平和」「民主主義」といった諸価値は、ニーチェからすればキリスト教の隣人愛に端を発するものに過ぎない。自分の利己主義を徹底化させて隣人の権利を奪い、全世界を自分の内に吞み込もうとする人間の根本的な衝動(権力への意志)は、いずれその限界に突き当たった時に己に倦み悩んで、ついには「誰も傷つけず、誰も傷つけない」という変形された意志となる。人々は他人に支配されることは望まないが、他人を支配することも望まなくなる。

このように、自分の権力への意志を直接行使するというリスクの前でたじろぐ全畜群は、もはや能動的な新しい価値・新しい「生」の目標を掲げることを放棄する。よって「全ての価値の価値転換」はいつまで経っても始まらず、もはやその存在意味を失ったはずの古い諸価値だけが残存し、ニヒリズムが蔓延る。凡庸な畜群が大多数を占めるこのような社会において、人々はただひたすら隣人と傷をなめ合い、同情し合い、決して自分を脅かすことのない存在を互いに要求し合う。まさにこれこそ、民主主義社会に他ならない。これが、民主主義がニヒリズムに他ならないとニーチェが喝破した理由である。

もしこうしたニーチェの思想に沿うとしたら、平和を脅かす戦争や紛争は、たとえそれが長期的・根本的な解決には至らないにせよ、民主主義と一体化しているそうしたニヒリズムの「歯止め」として機能することにならないだろうか。外部に存在する全てのものを内に取り組み征服してゆこうとする根本的な衝動が権力への意志であるならば、武力を用いて実際に他国を蹂躙しようとする国家はその点においては、「平和」を侵すべかざる国是として掲げる国家に比べて、ニヒリズムから相対的に解放されていると見なされうるだろう。そうした国家においては少なくとも、権力への意志を素朴な形で貫徹する強さが表れているからであり、他者を直接的に支配する意思を未だに捨て去ってはいないからだ。

しかし周知の通り、ニーチェは民主主義の根底にあるキリスト教道徳がもたらしたニヒリズムを食い止めることができるとは、ましてやそのニヒリズムに反動的な価値観を対立させて情勢の「巻き戻し」ができるとは考えていなかった。そもそもニーチェにとって畜群とは多数弱者であり、彼らの深い「精神性」と狡知を前にして強者である例外種は歴史的に敗北してきたのである。よって、上に挙げたような「戦略」で強者が未来で生き延び、ニヒリズムが克服されるとは信じていなかったのである。よく言及されるように、ニーチェにとってニヒリズムの「克服」とはニヒリズムの「徹底化」の果てに達成されなければいけないものなのである。つまり、何の価値も新たに作り出せない凡庸な畜群たちによる社会が隅々まで広がり、争いなど一切無い「平和」で「心地よい」世界が現実化することがまず求められているのである。ニーチェはこう述べている。

人間の卑小化が長期にわたって唯一の目標として通用しなければならない。というのは、より強い人間種が存立しうるためには、まず広い基盤が創造されるべきであるからである。

フリードリッヒ・ニーチェ『権力への意志 下』原佐訳 ちくま学芸文庫 p.408

よって、キリスト教道徳=隣人愛=民主主義の徹底化こそニヒリズムの徹底化なのである。強者による全く新しい価値が生まれるために、現在の優勢的な価値であるキリスト教道徳がその最終的な帰結を、一切の歯止めや遅延を抜きに、人類にもたらさなければいけない。よってニヒリズムの進行を一時的にせよ妨げようとする活動(「平和」を脅かす戦争はこれに含まれるだろう)は無意味であるし、避けるべきものなのだ。なぜならそれらはニヒリズムを徹底化させるのではなくむしろ阻害するのであり、狡知な多数弱者に、つまり民主主義社会に戦略なしで戦いを挑むことと同義であり、それは必ず失敗に終わる。では、畜群が優位を占めるこのような世界で強者が取りうる戦略とは何なのか。

それは非常に消極的なものだが、「偽装」である。例外種でる強者が多数弱者によって目を付けられ滅ぼされないために、「仮面」を着けて彼らと同じように振る舞うことである。つまりニヒリズムの徹底化自体を目的とする畜群たちとは異なり、あくまでそれを新たに打ち建てられるべき価値の土台として利用することを心得て、しかしそうした目的を秘め隠しながら、ニヒリズムの徹底化を歓迎するという態度である。

こうした理解しがたい孤独におちいる人間にとっては、外面的な、空間的な孤独のマントにも上手にすっぽりと身をかくすことが必要である。このことはその賢明さに属するからである。そうした人間が、下流におしながす危険な時代の急流のただなかで、おのれ自信を保ち、おのれ自信を上位に保つためには、今日では奸計や変装すら必要である。現代において、現代とともに耐えとおそうとこころみるなら、今日のこうした人間どもや目標に接近しようとするなら、彼はつねにそれをおのれの本来の罪であるかのごとく贖わなければいけない。

同上 p.479

やはり消極的な戦略と言わざるを得ないかもしれないが、こうした「偽装」には他の利点もある。それは「生存の無垢」が部分的に取り戻されることである。「世界がただそうであるということ」をそのまま受け入れる「生存の無垢」が弱者による道徳的な世界解釈によって汚され、そうした解釈を支えているキリスト教道徳が民主主義社会の全世界的規模の実現を進めている。彼らの間で「偽装」する「私たち」は、前前回の記事で挙げたような、「もちろん私は怪我をしたくないし、死にたくもないから戦場に行くのは真っ平だ。しかし、私以外の人間が戦場へ向かって戦闘を行うことについては賛成だ」といった意見を、たとえそれが本心であろうと、弱者へ向けて放つことはもはや無いであろう。私たちは「仮面」を被って、代わりに次のように言うだろう。「もちろん私は戦争に巻き込まれたくないし、他の人たちが戦争に巻き込まれるのにも反対だ。私は他の人たちと同様に平和を愛しているのだから」と。

しかし、「私たち」が「平和」を求めるのは、決して利他的であるからでもなく、道徳的であるからでもない。私たちがキリスト教道徳の価値転換を図り新しい価値を生み出すからには、それらが利己的な権力への意志を基礎とした、非道徳的な価値となることは免れないであろう。非道徳のために道徳の徹底化を求める以上、私たちの「偽装」は「生存の無垢」を汚すことのない「聖なる嘘」であり、私たちが表向き掲げる道徳は「贅沢」としての道徳となるだろう。

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