「いい子でいなくちゃ」の怪物。
わたしは4月生まれ。
幼少期の頃の数ヶ月の差って、どれだけ大きいか、知ってる?
3月生まれの子とは、1年近くも違う。
それが、何を意味したのか。
「ちーちゃん、あの子泣いてるー!ちょっとこっちきてえ〜!」
「どうしたん?だいじょうぶ?うんうん、いやなこといわれたん?わたしがいっしょに行ってあげるから、ちゃんとなかなおりしにいこう!」
「ちーちゃん、ありがとう!やさしい〜!」
「いつもちーちゃんがみんなの面倒見てくれてるんですよ。4月生まれやからお姉さんでしっかりしてるし、先生たちみんな助かってます。」
「あんたはいい子やな〜自慢の娘やわ。」
そう、別に誰かの世話を焼くのが好きだったわけでも、幼稚園の先生を助けたかったわけでもない。
ただ、わたしが皆よりたった数日、数ヶ月、1年早く生まれたというだけで、「お姉さん役」になってしまっただけなのだ。
お姉さん役をすると何が起こるか。
それは、「失望させてはいけない」という呪縛にかかること。
もちろん当時はそんなはっきりと「失望」という言葉を認識していなかったが、小さいなりにこう思っていた。
「いい子でいなくちゃ。」
20歳も過ぎて少しした頃、内側から壊れたことがある。
その時に母にこういった。
「お母さんが・・・お母さんがわたしを『自慢の娘だ』っていったから!
だから悪い子になれんかった。
こんな歳になってから悪い子になったって・・・誰が愛してくれるっていうん!?どうやって元にもどれっていうん。」と。
母は、
「お母さん、いい子でおってほしいなんて言ったことある?
そんなこと、ひとつも望んでないで。
誰かに優しいからとか、しっかりしてるからとか、そんな理由で「自慢の娘」って言ったわけちゃうで。
あんたがいい子であろうが悪い子であろうが、お母さんにとっては自慢の娘に変わりないのに、幼稚園のあんたには、その言葉がそう映ったんやな。
長い間しんどい思いさせたんやな。ごめんな。」
といった。
もうだいぶ前の話だけど、わたしはこの時の母のびっくりした顔と悲しそうな声を一生忘れることはないと思う。
それと同時に、「いい子でいなくてもいいのか」と安心したことも感覚として覚えている。
でも、わたしは今でも「いい子でいなくちゃ」と思っている。
半分本気で、半分どうでもいいと思っている。
本気、というのは、これはもう自分に染み付いている感覚だから、無意識に本気でそうしてしまうということだ。
例えば何か判断する時、「いい子はどう考えるんだろう」と頭が考えはじめ、わたしの中のいい子の定義が「いい子はこうするんだよ。」と答えを出してくる。
そこに、何の疑問も偽りの気持ちもない。
わたしは、ある意味「いい子でいること」とうまく付き合うようになった。
そうして生きてきた結果、今の自分がいるんだから、もうそれでいいじゃないか、と。
あえて、この思考を壊す必要もない。
わたしの中のいい子の定義をうまく受け入れながら、時には「まあ、いい子じゃなくてもわたしは幸せだしなあ」と楽観的に生きている。
しかし、同じ親から生まれた子ども。
そう、わたしの姉も例外ではなかった。
姉は、わたしより重症だった。
もう、それはそれは「いい子でいなくちゃ」に蝕まれた怪物とでも言おうか。
「いい子」に閉じ込められて生きてきた姉は、もうそれに耐えられなくなって、行くところまで行った末、飲み込まれた。完全に過去の自分を捨てた。
でも、それは本来の姉の姿なのかもしれない。
別にそれでいいと思う。
わたしのように「いい子」とうまく付き合う方を選んで生きるのも一つ。
姉のように、全てを捨てて一から自分を形成する方を選んで生きるのも一つ。
同じ悩みを持って生きてきたはずなのに、真逆の人生を歩んでいる。
母はわたしたち姉妹を見て、いつもこう言う。
「わたしの育て方が間違ったんかな」と。
わたしはそれを隣で笑って聞いている。
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