hitoridebun

自分を言葉にぶちこんでいます。

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最近の記事

tameiki

溜め息ばかりつく日常が嫌になりさらに溜め息を吐いてしまうことがあって、際限なく不満は溢れ出てしまう期間も当然誰しもあって。「社会は厳しい」という題名で歌でも作って叫びたいぐらいにある。ラップで。 なんでこんなにも面倒なのかと考えることがあって、結局は自分でコントロールできないものが増えていることが原因で「自分さえ良ければいい」と思える時間も歳取れば少しづつ無くなっていく。 だからどうしようもないし、どうにもならない現状にとりあえず溜め息を吐いてストレスも少しは軽減させよう

    • kimotigawarui

      「何の夢を見たっけな」と昨晩見た夢を思い出そうとするがちっとも覚えていない。何となく夢の中に旧友がいたような気がするが、そいつが俺の夢で何をしていたか分からない。 そういえば最後に遊んで数年が経っている。連絡も取っていないので「元気にやってるかな」と夢を見たついでに少し気になるくらいの俺にしては珍しく仲が良い友達で、別に喧嘩別れをしたわけでもない。それでもなんとなく遊ぶことは無くなってお互い連絡も取らなくなった。 人間と関係やってるとそれは珍しいことじゃない。喧嘩などして

      • hitoridebun

        俺には夢があって、一人で文を書き続けられる生活を毎日してしたい。それができれば他に何も要らなくて、強いて言えばコーヒーを飲めるくらいの小遣いくらい。ブランド物の時計や服はもちろん、車だって仕事がなければ必要ない。必要ないけれど現実は夢まで程遠くなんなら歳を取るごとに遠ざかってまでいる。お金は職場に依存して仕事に必要なら欲しくないモノでも買い、困ったことがあれば好きでなくても誰かに相談していなければ生活は成り立たせられていない状態にある。時間の多くは書くことでなく仕事に費やされ

        • inoru

          宗教には興味がないけれど、子供の頃から自分の中に自分だけの神様はいるような気はなぜかしていて困ったことがあれば「○○になりますように!」「○○できますように!」みたいに願って祈っていた。当然叶う時もあれば叶わない時もあって祈ろうが祈らまいが現実は変わらなく実際に「それ」は存在はしてないものだとは分かっていたが祈ることで何となくは安心できていたのでそれは都合のいい神様として頼り続けた。 いつからか祈ることも忘れて、現実はいつも目の前に起こったことが現実で取り組める自分がどうに

          umakuikanaitoki

          仕事、家庭など何もかもうまくいかない時の話をしようと思って、ただ以前にもそのような話を書いたような気がするが、それも気にせず話してみる。仕事は職場の人間関係、上司、同僚、後輩、顧客の関係と、業務のノルマと質、家庭ではパートナーとの関係と家事、育児は子供の関係、体調、保育園との関係など全てが思い通りにいかず不安ばかり募ることで、全方位上手く行っていないようでただそれも大袈裟に聞こえるほど生きていれば何度もある。 人生苦ばかりというのは正解で、できるだけ楽しかった、幸福である面

          umakuikanaitoki

          ibasyo

          自分の居場所は、自宅か、職場か、実家か、カフェか、田舎のパチンコ屋かなんて人それぞれで当然誰しも持っていると思っていたが実はそうでもないらしい。集団で生きるなら自分の時間もないことが普通で居場所なんてない、あれば幸福な方と言われて「ああ、そうか」と腑に落ちた。 「居場所」とはそこにいて自分が安心できる、そのままに自由に振る舞える場所だと思うが、確かにある程度年を取れば仕事、家庭に追われて自由さは格段に少なくなり概ね義務感で行動している。「これがしたい」と心から思えて行えるこ

          nayami

          必死に悩んでも全てを失敗して「後は死ぬしかないか」と思うようなことはおそらく人生には何度もあって。それでもいつの間にか事は過ぎていてあの時は大袈裟だったと感じれるまでになる。 悩んだ時は実際に大したことはできていない。悩みに悲しんで、時には腹を立てることで体力は消費して、酒は飲めないのでお菓子をやけ食いしながら「現実は厳しいな」と愚痴を言い続けるだけの生活になる。なんとか日々の仕事と家事を最低限のこなすことが精一杯で、それなのに不思議と時間と共に悩んでいた問題は問題でなくな

          doryokusinai

          「人生って切り開けるもんだっけ?」と、歌詞なんかにそう書いてあるのを見ていつも不思議に思う。人生について語られると、「自分の人生どうにかできるのは自分だけで、努力すればそれは変えられるよ」みたいなことをよく言われるけれど、「そうか?」という違和感しかなくて、今まで人生を意識的に好んだ道へ切り開けたことはなくて、努力や能力が足りないとしても、どうにもならない状況を仕方なく受け入れることことの方が圧倒的に多かった。それでも状況が好転することはあってそれは「いつの間にか」。むしろ時

          doryokusinai

          tanosii

          終わらせることが目標じゃなく過程が全てで、やっている最中が楽しいの絶頂。今の仕事も文章もそうなっているから長く続けられているという自負がある。ついつい早く終わらせてそれに対する結果を得たい、もしくは違うことをしていたいと思いながら行うことに、この行動ははたして何のために存在しているのでしょうか?と脳みそに確認し要らなければ極力生活から省いていく。 本来なら給料のための仕事も生活のための家事も割り切って早く終わらせるに限るしかないように思えるけれど、思いの外、機械化と質素化で

          kansei

          感性が大切なんだ。おじさんになるにつれて何となくそう理解できていて、若い頃は衝動でしかなったそれも感性じゃないかと言われればそうなのだけど、衝動と欲に理性が乗っかった、一度社会性を身につけて、それだけに縛られる経験をした上での感性が俺にはしっくりきている。感性は自分ではよく分からない曖昧なもので簡単に言うと自分の中の「何となく」の部分。確かに存在しているけれど故意に出すことはできず、力んでもサボろうとしてもダメ。何なら未来や報酬は何も意識せずに最善と思える行動を後先に考えずに

          jibungatari

          エッセイを書いてると「可哀想だと思われたいの?」と聞かれることがあって、「いやそうじゃなくて…、あ、でもそうか」と納得するまでの流れが定期的にある。自分が可哀想だと言うつもりはなかったのだけれど、確かに書いてある内容は周囲の起こったことや感じたことなど自分のことばかりで、率直さも意識して遠慮なく恥ずかしいことも書いてしまうので側から見ればかまってちゃんのような自分語りの側面がエッセイにあることは理解できた。 考えてみれば自分語りのそれがなぜ面白くこの世で愛されているのかよく

          omoidori

          基本的には自分の思い通りに生きていたい、が、もちろん現実はそんなに甘くなく、そうできないことがほとんどの現状と常に格闘している。現実が厳しいのは元々「そんなもん」で日常的に飢えなく生活できていることには感謝し、悩むことも烏滸がましいとしてひたすら格闘は続けなければいけないと言われているみたいだ。 と言われても自由さは諦めきれないので思い通りに生きるための努力は一応していてしがらみは可能な限り取っ払うようにしている。例えば人間関係は最小にしようと誰かに誘われることが全く無くな

          kyoukan

          「人の気持ちを考えましょう」と物心ついた時から今の今まで言われて、そしてこれからもそうだと教えられる。共感と呼ばれて人の心に寄り添い、人それぞれに見合った援助しましょうと。俺もそうするべきだと思うし仕事も医療職であったから余計にそうできようとして他人の気持ちを考え続けている。例え医療職でなくともなにかと世間では必要とされている能力なので社会ではきっと役に立つはずで私生活でも良い人間関係の構築のためになるだろうと共感できる人間になろうとして、おそらく今はそうできて、なんと面倒な

          asobu

          やるべきことのない何をしても咎められない自由な時間が急にできたけれど特にやりたいことがなくて、一人寂しく「暇だな…」なんて言ってしまった場合は直ちに自分をビンタして好きに遊ぶことにしている。歳取ればどうやったって責任はいくつも自分について回るので自由な時間が少しでもあるだけで真っ先に喜び、その衝動でひたすら文章を書いていたい。刻々と時間が減る状況で若さも殆どない中年になれば遊ぶ時間はあっても真面目を行う余裕はもう無くなった。 普通は逆だと思う。何しても許される時間は少なく責

          keikaku

          計画する、この世の数あるものの中で一番嫌いな習慣かもしれない。例えば旅行のしおりなんか大っ嫌いで、朝から夜までの行く場所を決めてしまって時間を気にしながらの行動へ快感は全く理解できず、他人がそれを決めることはありえないが、自分で決めるとしても当日の自分は前日の自分でも予想もできない別人格であり優劣は現在に感じている気分が最も偉い。事前に行動内容を決めておくことは当日の自分を縛る行為であり、情報など集めて計画する労力も合わさってうんざりしてしまう。旅行なんかさらっと観光地の情報

          ikikata

          最も大切にしたいのは生き方といつからか曖昧にそう思うようになって現在では確信している。エッセイなどの文は特にそうで、作るものには必ず「生き方」が反映されてモノになるのでどれだけ自分として生きてこれたが重要になる。文の技術と量はそれほど関係なく、一般的な上手下手の評価はクソだなという実感と、それを基準にしていた時期に後悔がある。 ということは、文に価値が乗るのには長期間の独走が必要になるわけでとりあえず死ぬまで書き続けることにはしている。ついつい短期間で結果を求めてしまうよう