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omoidori

基本的には自分の思い通りに生きていたい、が、もちろん現実はそんなに甘くなく、そうできないことがほとんどの現状と常に格闘している。現実が厳しいのは元々「そんなもん」で日常的に飢えなく生活できていることには感謝し、悩むことも烏滸がましいとしてひたすら格闘は続けなければいけないと言われているみたいだ。

と言われても自由さは諦めきれないので思い通りに生きるための努力は一応していてしがらみは可能な限り取っ払うようにしている。例えば人間関係は最小にしようと誰かに誘われることが全く無くなるまでの関係性になり、こちらから連絡を取るのもほぼ上司のみになっている。LINEも上司とのやりとりで溢れているのは見ていて悲しいが、それよりも一人で寂しいなんて気持ちは当に無くなって気遣いのいらない生活をできることが楽しい。何かと気持ちが乱されやすい性欲も年々程良く低下して女性を意識しなくてもいいようになった今では見栄も無くなり生活はシンプルに食と文章だけで生きていける気がしている。

問題なのはお金。これはどうしても必要で家族がいれば尚更だ。独り身であれば、仕事なんてやめてバイトで食い繋ぎ趣味だけを行っておきたいが現実的にそうも行かずにこれだけには我慢をさせられている。人間関係も健康にも興味が無くなって、あとはお金だけどうにかすればいいという状況であっても「金」が最も手強い。

一般人は基本誰かの言うことを聞いてお金を貰う必要があって、それ以外の方法は知らないし知ろうとも面倒で行わない。一般人には一般人の誇りもあって、できるだけ楽に貰える方法を探す。

そんな一般人の中にも誰の言うことも聞きたくないという偉そうな人がいて、それは俺。そのためそれなりに稼ぐことにも人一倍苦労はしても、どうにかして誰の言うことも聞かないでいいような環境は諦めず今も考え続けていて、せめて一人職場にしてしまいたいが自分の中にそれで稼げる才能が未だ発掘されていない。仕事内容もできたら好きな作業にしてしまいたくて、「これが今儲かりまっせ」みたいな金をご褒美に頑張る的な話題に興味は湧かず、行うべき作業も自分が楽しいかが全てになっている。要するに能力が低いワガママで「中々に終わっているな」と書いていて思う。

ただ、自分は好きだ。不思議なことにそんな自分を変えようとも、変えれない自分を悲しいとも思わない。このままのずっと自分の行えることを一生懸命にやるだけだと開き直れている自分も好きだ。できるかどうかの能力で自分を肯定否定しなくなったのもまた自由に生きれている証拠のはずで、なんだかんだ仕事もいつか自由にできる気がしている。仕事は我慢するモノだと最初から割り切ってしまうことも効率的なやり方だと感心するが、我慢しているうちは一生それを好きになることがないと分かって悲しくなるのも能力のないワガママな一般人の特徴だ。

ワガママだが物欲は無くて基本的に何も要らない。食も文も好きだが高い外食や本には興味がないし、自分のペースが乱されるほど我慢しなくてならないものはスルーする。我慢するくらいなら要らないが通常で、「あれやれ、これやれ」な人は本当に嫌いで見るだけでげんなりする。求めない状況ははっきり言って最強で欲が全くないのモノが対象の状況では冷静さしか残らず、そんな時に限り女性や仕事にも好かれた経験もある。そう、自慢だ。

ただ一般人(俺)はお金に好かれた事がない。常に欲しはすれど金欠で冷静にもなれずいつも不安は付きまとう。それが一般人の生活かもしれないが、どうせならそのような不安も無くしたい。不安が無くなるのかも知らないが、生きるの「楽しい」の比率は上げておきたくてできるならお金にも好かれておきたい。お金が女性や仕事と一緒だと仮定すれば(?)求めないことが必要になるが、、、いやスピリチュアルをしたいわけじゃない。

結局お金について。家族がいることを考えておくことは重要だが皆を一人で守るなんてできそうにないことを悩んでも仕方もない。食欲や物欲、性欲などの欲は段々と無くなってきてペースは自分に戻り自由さが増しているのは、欲せず自分にできないことはできないと認めたことで作られた余裕が合わさってできたものでもあって、「その内どうにかなる、できることはする」というペースでお金はなくとも金欲も其の内無くしてしまうつもりだ。自由になるためには権力や金など何でも手に入れてしまうだけでなく何もかも手放して手に入る方法もある。「どうせ大したことは起きない」という諦めがいつも心を軽くしてくれるのは何度も経験できていることで、今日も淡々とこなすことにしている。その淡々さがまた結果を生んでくれている。

最近何かを追うことは少なくなった。若い頃はあれだけ彼女を作りたかった気持ちも今では理解できず、生まれ変われるなら一生童貞で過ごしてみて人生どうなるかを試してもみたいなんてことも思う。以外に一人で、もしくは変態な友人とずっと笑って過ごせている気がしている。人間関係も狭くなったせいもあるが、好かれることはあれど、嫌われることは少なくなった。誰とでも付き合おうとしたこと、そして好かれている数は多ければなんとなく偉い気がしていた価値感がなくなり人と素直に付き合えるようになったことが大きい。「素」を出すことが、それ自体が恥ずかしいとしていた時代は忘れて、「素」は良いのか悪いモノなのか分からないが好きになっていた。モノについても安くて使えればどうでもよくて、格闘していたはずの今でも思い返してみれば「あれ?結構思い通りに生きてんな」と思えてくる。

大袈裟に自由を考えずに単純に諦めてしまうことは一種の攻めになり「ダメなの?ならいいや」の精神ははどこまででも使える。諦めから飾らない「素」が見えてそう行動できることは嬉しくて、結果的に好きなことを結構やれている現実にも気づく。不得意なことは誰かに任せて仕舞えばいいとはよく言ったもので、競争はせずに自分が好きかどうかだけを基準に行動できるようになったことは幸福で、どうして以前はあんなに誰かに嫉妬したり、勝ちたいなんて思って生きてたんだろうなと笑ってしまう。できないことは諦め「素」で居れば自由さは簡単に増えてしまうのにそれ自体に気づくのは難しくて時間が掛かってしまうのはなぜだろう。


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