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asobu

やるべきことのない何をしても咎められない自由な時間が急にできたけれど特にやりたいことがなくて、一人寂しく「暇だな…」なんて言ってしまった場合は直ちに自分をビンタして好きに遊ぶことにしている。歳取ればどうやったって責任はいくつも自分について回るので自由な時間が少しでもあるだけで真っ先に喜び、その衝動でひたすら文章を書いていたい。刻々と時間が減る状況で若さも殆どない中年になれば遊ぶ時間はあっても真面目を行う余裕はもう無くなった。

普通は逆だと思う。何しても許される時間は少なく責任だけは多い状況では誰かの成功事例に倣って真面目に生きていた方が失敗しない人生を歩めそうだ。ただそうして俺は失敗した。誰かの言うことを倣い続けた結果、自分が喜んで継続できる作業、環境は無くなって我慢しないと生きていけない状況だけが整備された。それは自分以外の常識と誰かを基準にし続けたからで、常識と他人が行えるペースで歩める道を俺はせっせと整えていた。

遊ぶとはそれ自体が楽しくて目的のない、他人の好みや関心から干渉されない行動を言う。つまりは何でもいい。自分の感情が爆発できればゴールで、普通に生きていれば誰かに影響もされ、それが常識として後から変更もされにくくいつのまにか利益目的の行動ばかりになる中年の俺には遊ぶしか無い。誰かに言われて行う仕事は最低限に。クビになればまた職を探すか今度こそ自立してみればいいかと真面目さはまた振り払うようにしている。

貢献したい欲求も忘れたい。遊ぶために他人の役に立ちたいという気持ちも厄介で、それ自体素晴らしいことだけれど、他人に役に立つことで自分を確立しようとする依存がある。またそれが行き過ぎると自分を簡単に犠牲にして「美しい」とし、そう行わない周囲を「なぜ自分のようにしないのか」と責めるようになる。バランスは何事も必要で他人に役に立つについては「求められたら」で良いということにしている。求められずに行うことは人それぞれの事情があることを考慮するとただのお節介で、求められて、どうして欲しいと言うことを聞きその中で自分にできそうなことを選定して初めて人助けをとりあえず一度行う、ということを基準にしている。そうすれば自分は犠牲にせず、周囲を責めたりもしない。あくまで人生の主体は自分であると自分と他人に対しても忘れることはない。

さて、遊ぶとしても何をしようか。自分が興味のあることをただやればいいが、難しく考えすぎて何をやったらいいか分からないなんて言い始めて結局参考書を片手に仕事の勉強を始めてしまうこともある。それがやりたいことであるなら問題無いが、本当はそうでないはずで趣味活動と仕事は異なる。単に趣味をやったらよくて、お金も結果も自分の成長のような高尚さも意識しないようにしたい。

要はシンプルでありたい。例えば目的にお金なんて考えれば経済活動の多くのことを学ぶ必要があり、得ようとすれば仕事になる。教科書で勉強なんてこともせずに何か好感が持てる対象をやる、と本能レベル行動して「今」を生きるようにしたい。事務的に計画立てて未来を考えながらやるのでなく、そんな余裕すら持たずに今に没頭できることが時間の無い中年の生きる道じゃないかと思っている。

立派でありたい見栄も責任もできるだけ持たないようにすることも遊ぶうち。人生にまた自分を取り戻す、行動の自分濃度をひたすら濃くして行く中二病のイメージ。究極的には馬鹿にされてもいいというか馬鹿に在りたい。卑下と遠慮なく常識が視野に入らない心地を持てるようになっておきたい。際限なくどうでもいいことを気にしすぎてしまう環境はさっさと捨ててしまいたくて最近山に籠るか迷っている。しかしWi-Fiはあるだろうか。

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