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jibungatari

エッセイを書いてると「可哀想だと思われたいの?」と聞かれることがあって、「いやそうじゃなくて…、あ、でもそうか」と納得するまでの流れが定期的にある。自分が可哀想だと言うつもりはなかったのだけれど、確かに書いてある内容は周囲の起こったことや感じたことなど自分のことばかりで、率直さも意識して遠慮なく恥ずかしいことも書いてしまうので側から見ればかまってちゃんのような自分語りの側面がエッセイにあることは理解できた。

考えてみれば自分語りのそれがなぜ面白くこの世で愛されているのかよく分かっていない。俺はたまたま好きだったから書いているだけで本に興味のない人はエッセイという分野すらも知らないものだろうし、社会では自分のことばかりを話す人は基本的に煙たがられているわけだし。それをお金出してまで買うモノできている人の文章は狂気に近いものがある。書く人が名誉ある有名人であれば、元々ファンであれば買うのも容易くても、どこの誰とも分からない、例えば40近いサラリーマンメガネのエッセイなんて誰が読みたいと思うのか。実績も好まれる外見も無い自分語りの文で誰かに好かれる方が何かおかしくて、それなら自分についての内容をできるだけ排除して他のことを語り、読む人に好まれそうなブログでも書いている方がより皆のためになるのか。

いーや絶対楽しくない。書くことを想像しただけで愛用しているiPadもドブに捨ててしまいたくなる。文を書くことは、言ってしまうと「自分」のことを書くから楽しいので他はどうでもよく、自分の周囲に起きたことを型に囚われず自由に書ける自己中心さがあるから続けられている。自分のことを書けず、そして書き方や書く内容を指定、制限されることは受け付けられないワガママで成立している。

「その方が書くのは楽しいのは分かった。でも誰かに読んでもらえないと意味がないでしょ」と言う意見も、不思議と誰かに読んでもらえているので大丈夫だ。よく分からないが、もちろん「わたくし、エッセイ書いてます」と言える程度には程遠いが読まれてはいる。

読まれていることについて曖昧には分かる。ワガママな文が「人」となって好かれている。自分語りという個性的な文章だからこそ人柄が表現されて、著者と読者が会わなくとも著者を好きにさせているからだ。実際エッセイを書く人は会ったことも見たことも聞いたことのない人も多くて、それでも気に入れば本を買っていたし、読んでいて確かに「面白」かった。腹抱えて笑わせるようなお笑い的なものでなく、その人の感性が斬新でたまらなくなりただニヤけてしまう感覚の、自分語りを嫌に思う暇もなく著者に没入してまた読みたくなる。好きな人の行動はどんなことも許せる感覚でもあり、文章が面白い人は確かに人を魅了できる。

自分の文が少しでも今読まれているのは、僅かでもそういったことをできているからだと思っている。何が面白いのか自分で分からないが、誰かに何処かが面白いと思われて読まれている。人間関係を構成するに当たっていつの間にか人に好かれている場合があるように、それは気取らず自分のままでいる方が多く経験されることも文章では共通している。自分ではありふれた当然のモノでも誰かを補っている。その魅力は感覚的なもので曖昧で法則も無い。無理に作ろうとすれば気取ったような気持ち悪さが対象に伝わりすぐに振られてしまう。おそらく今後もよく分からず書き続けることが必要で、自分にある「何となく」を何となくで極めることが目標になる。

ところで自分の何となくを大切にしていると、なぜ「文章が好きです」と堂々と言ってこなかったのかなと後悔する。「文章を書いている」なんてプロだけが許される自己紹介の文言のような気がして、また自分の文章が知り合いの誰かに読まれるのが単純に恥ずかしかったからだけど、ただ自分を蔑んで隠していれば、そのまま文に現れ見栄が混じったモノになる。後から読んでみれば、どこかで読んだような偉そうな文に「自己啓発本みたいだなー」と寒気をしばらく感じるハメになる。

自分の好きな文章を書くにあたって素直な生き方も必要なんだとある時から気づいて、今では恥ずかしげもなく、いや少し気まずく「文章が好きです」と答えて文章を見てみたいと言われれば見せている。その反応も咀嚼しながらある程度は自分の意見で貫けると「素」が人生の中で増えていく感覚がある。「素」を周囲に表現することはこれだけ難しかったんだなと実感して、それでも全身の力みを抜いてしまえばできてしまって意外とそれについての批判はないことと、共感もなくても気にならず自由であることに気づく。

エッセイなんてどこまで素でいれるかレースみたいなところもあるので堂々と自分語りをこれからもしていくつもりだ。自分の何が面白いのかよく分からないが、率直な自分の表現を前のめりに行う必要があるのは分かる。嘘をついてばかりではすぐに文が腐ってしまう切迫感から積極的に自分のボロを出している。次に「可哀想だと思われたいの?」と聞かれれば「素直に行動してるだけなんだよなああああ」と中指を立ててみるつもりだが最近は「可哀想だね」とも言われなくなって、「変わってるもんねえ」と言われて少し嬉しくなっている。

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