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ikikata

最も大切にしたいのは生き方といつからか曖昧にそう思うようになって現在では確信している。エッセイなどの文は特にそうで、作るものには必ず「生き方」が反映されてモノになるのでどれだけ自分として生きてこれたが重要になる。文の技術と量はそれほど関係なく、一般的な上手下手の評価はクソだなという実感と、それを基準にしていた時期に後悔がある。

ということは、文に価値が乗るのには長期間の独走が必要になるわけでとりあえず死ぬまで書き続けることにはしている。ついつい短期間で結果を求めてしまうような感情にはその都度説き伏せて「そんなことより良く生きよう」と納得させる。

良い生き方って。良い文章が書ければいいので、行動する上で自分をどれだけ表現して痕跡を残せるかだけに固執している。魂というか、血と汗と匂いをどれだけ活字にぶち込めるがを価値として、そのために恥は捨てて、意見は受け止めるがそれでも参考にはせず走り続けて独特な大量の思考と体験を欲する生き方にする。面倒ではある。

孤島で孤独に誰に何も言われない生き方にも憧れるが、誰かに接して何か言われることに嫌悪しても書くためには不必要にはならず、言われ続ける中、不思議なもので自分のことなのに自分の知らない側面があることに気づかされる。それが長所、短所にしろ伸びしろには違いなく今まで使用されていない感覚があることを知れて自分が拡張されるのは嬉しい。拡張された自分がまた新しい文章を書けることは嬉しく俺は孤島に向いていない。

ただ真正面から他人の意見は鵜呑みにせずに基本的には独走から独創する。誰かの意見は常識と他人の価値まみれで面倒に変わりない。そして、極たまに独走して作られたモノに共感されるからまた楽しい。自ら合わせにはいかず、離れて尖ったものが誰かの生活に刺せる瞬間は自分が在るようでたまらなくなる。ついつい真似ばかりしてしまう今の環境にもうんざりしていて、作品内容とその技術など情報は簡単に得られ、誰かもしくは機械が簡単に作ってくれる便利さには自ら作りたい欲は削られてしまう。それらにはできるだけ距離は置いておきたい。効率とかいいからむしろ時間は掛けておきたい。

生きるを続けるためには。何度も「これでよかったのか」と疑問に思い反省し自分を否定して楽になりたくなる。そんな時は作ったものを振り返る。俺にとってそれは文章でひたすら文字と自分に向き合いを確認できるので「どう在りたいか」を思い出すことができて非常に便利だ。忘れてしまった感情もまた思い出し這いつくばることができればいい。上手く歩くこともに必要としてなければまた自分を好きになれる。確認するものが他人のアドバイスではそれは難しかった。

今まで、特に何もしてこなかったが、文章を書くことは続いていて、良い文章を書こうとすれば良い生き方を求めて自分を成長させてくれる魔法があるからだ。こんな感覚を趣味に持てたことは運が良いし、何かを「作る」という行為は本当に尊いし誰でも行えることでこれに気づけたのは人生に置いてデッカイ。

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