人間関係、期待、裏切り、お世辞、本性

昨日さあ、ひさしぶりに会った後輩の女の子に「髪染めたんですね。かっこいいです」って言われたけどぜんぜん喜べなかったんだよね。

その子のことを嫌ってるわけじゃないし、むしろ好きなくらいだし、褒められることなんてぜんぜんないから、理論上は喜んでるはずなんだよ。
で、そのあと電車の中でいつもみたいに1人反省会を開いて分かったんだけどさ、あの……さ。

俺はコミュニケーションの一環としてお世辞を乱用するのを厭わないから、思ってもないことにレトリックをフル活用するのを厭わないからさ、逆に、相手にお世辞じみたことを言われても、もう俺はそれがお世辞かもなって思ってしまって喜べないんだなって。

人殺しが誰よりも殺人に身近で、自分が殺されたらどうしようって怯えるみたいに。
そう気づいたときに人間性が剥がれ落ちる音がしたよ。

でも、誰にだってお世辞を使うわけじゃなくて、俺は好きな人に対してはとことん正直になる。それがなによりの愛情表現だと思ってるから。逆に、どうでもいい人に対してはとりあえず好かれた方がいいかってお世辞を使う。

もし同じことを相手がしていて、相手にとって俺がどうでもいい人で、それでお世辞を使っているならどうしよう。他人の心なんて読めない。

人間関係のあらゆる悪感情は期待を裏切られたことから来るから、期待しないことは、裏切られない=人を嫌わない唯一の方法と言える。そして、期待しないことは、相手にどんな好感情も抱かない…………つまり、相手に優しくされたとして、その"行為"を好んでもその"人物"の好むわけではない、たまたま優しいことをしたからといって彼/彼女が優しい人だとは認めない、そういう究極の現実主義に他ならない。

もちろん、確率の話として、優しいことを5回している人は優しいことを1回もしていない人よりも優しいことをする見込みがある。しかしそれは単なる予測でしかないし、参照するデータの少なさと得られるデータの少なさを考慮すれば、あまり意味はない。

期待とは願望と誤謬を含む予測であるはすだ。期待しなければ誤謬は少なくなるだろうが、願望もない。目的を持たない行動は労力と時間を浪費するだけで終わる。そして予測だけの人生ではすべてが予定調和に貶められる。
だから期待したいし、実際に大勢が日常的に期待していて、ときにギャンブルなどで身の破滅を招く。終末論者でさえも世界の終わりを期待している。

裏切りに齎される悪感情が問題だとしても、たいていの悪い思い出は消え去るかより良い思い出に上書きされる。ただ傷ついたときに、早期に適切な治療を行えなければ、古傷としてずっと残ってしまう。その経験は新たな期待を、次の人間関係への挑戦を損なわせる。

畜生でさえ学ぶだろう。吊るされた魚を食べると罠が作動するなら、2度目は食べない。しかしその部屋から出られないのなら、もはや餓死する他はない。暗い一生としか言えない。

面白いのは、人間関係のトラウマは人間関係への意欲を無くさせる一方で、人間関係のトラウマは人間関係の成功でしか治らないということだ。

多くの人間は裏切りの傷を誰かに癒してもらう…………恋人への愚痴を友人にこぼしたり、友人に酷い目に遭わされたら家族に相談したり。しかし誰もが人間関係に恵まれているわけでもなく、孤独な人はさらに孤独になる。

私たちの理想は、たくさんの好感情と悪感情を抱き、後者を忘れ、前者を交友関係として大切にすること…………ただがむしゃらにそうすること。期待し続けること。

ならば、きっと、私は褒め言葉を褒め言葉として受け取るべきだった。そして、他人に誤解させないように=価値観を歪ませないように正直にいるべきだった。

そしてお世辞がお世辞だと分かっても「なんだ嘘かあ!」と片付け、誰にも好かれなくたって誰も傷つけないように生きること、それしかないのかな。


自分で考えておいてやな結論に至っちゃったな。たまにこうなる。なんかもっとパッと解決するような理論ができないものかね。

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