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脱出

 「清々しい青空だねーーーー!!!!」

 制服姿の彼女がそう言ってはしゃいでいたが、僕はずっと俯いて地面を見ていた。

 「青空はキモいよ」

 「なんで?」

 「青空にはなにもない。なにもないと遠近感が狂う。すごい近くにあるようで、すごい遠くにあるようで、そもそも存在しないんじゃないか、ただの映像なんじゃないか、そう思わせる。僕がいるこの星が真っ青な風呂敷に包まれてるような気分で息苦しい。いつもどこでも上から見下されてる気分でイライラする。引き裂いてやりたい。そもそも、別に青じゃなくてもいいじゃないか。なんで青なのか、なんでずっと青なのか、飽きないのかよ。そのあたり分かんなくてモヤモヤする。不気味だ。僕の顔も真っ青になる。」

 「キモいのはキミじゃないかな?みんなそんなこと考えないよ」

 笑顔で淡々とそう罵倒してきた。

 「黙れよ、バカ女」

 いつも通りそう返すと彼女は笑った。なにが楽しくて笑っているのか分からないが、僕は彼女が笑うのが楽しくて笑った。

 「じゃあ、私がたしかめるね」

 「空に行ってか?」

 「空だけじゃなくて空の向こう側にも行くよ。キミが安心していられる場所を見つけたいよ」

 「そんな場所どこにもないよ」

 この限られた時間は楽しみたいだけなのに、嫌な気持ちが込み上げて損をした気になって、もっと嫌になる。

 「そうだね。キミが1番ビビってるのは、キミ自身の弱さに、だもんね」

 「…………図星だから言うなよ」

 「へへ…………最高の彼女だからなんでもわかっちゃうナ」

 鼻頭を利き手で擦りながらそう言う姿がめちゃくちゃ可愛かった。

 しばらく歩いていると空が僕の頬みたいに赤らんできた。この時間の空には特に思うことがない。夕方には子供の帰る姿を見たり、夕食の作られている匂いを嗅いだりするが、それらは僕に縁のないことのように思えた。そしてベッドに伏せて今日の反省会をすればあっという間に夜が来る。

 青空が茜空になったのでやっと視線を平行にした。首は疲れていた。

 「地面を見るのは楽しかった?」

 「うん。なにもなくて綺麗らしい青空より、蟻の群れとミミズの死体、放置されたペットボトルとビニール袋、コンクリートの間の雑草とたんぽぽを見る方が楽しいよ」

 「綺麗?」

 「汚いかな…………でも生きて色々すれば汚れるよ」

 「お風呂は?」

 「君がお風呂だ」

 「いいね、それ」

 満足そうに何回も頷いていた。

 夜について語る前に彼女の家に着いてしまった。

 「また明日ねー!」

 「はい。あとさ…………やっぱり訂正したいかな」

 「かな?」

 「いや、訂正したい」

 「うん」

 はは…………なんでも見透かされてるのが情けなくて失笑する。

 「君だけは綺麗だよ」

 「なんで?」

 「なんでだろうね…………分からない。天才なのに。でも僕の存在は◼️◼️◼️◼️って名前を綺麗に書くときに不意に垂れてしまった墨みたいに余計で汚くて矮小な汚れだよ。擦って取ろうとする度に広がってイライラする」

 「うん…………やっぱキミは気持ち悪いな!またね!!」
 





















 それから30年後、彼女は宇宙飛行士として飛び立った。僕は暗い部屋に閉じこもって、宇宙船が青空を突き刺す様をパソコンで見たんだ。その聖槍は青空へ真っ直ぐに突進し、どんどん小さくなって、やがて見えなくなった。

 宇宙船が帰還して3週間後、彼女は報告書の作成やインタビューの応答といった仕事を済ませてアメリカから帰ってきた。
 古いこたつの中で感想を聞くことにした。

 「どうだった?」

 「青空が近づいてきて…………なんか怖かったよ。日常というか、あたりまえが壊れるというか、しかも自分がその原因になってる感じが怖かった。空を抜けようとすることが疾しいことな気がした」

 「抜けてみて、どうだった?」

 「ほっとした。解放された気分で。でも今度は真っ暗になったんだ」

 「真っ暗?ああ」

 「宇宙だと全方位が真っ暗で、逃げられない気がした。星が目みたいで、どこからもなにか偉大なものに見られてる気がした。でもこの狭い宇宙船から出られなくて、逃げられない。なにもしなければ絶対にいつか死ぬ。死だらけで本当に怖かった。もうイライラとか不気味さとかなにもなかった。それだけだった」

 「じゃあ、俺はきっと宇宙の方が、空の向こう側の方が嫌なんだろうな」

 「うん。青空ごときでビビってるあの頃のキミは滑稽だったね。無知で傲慢だった」

 「そうか…………でも君は今も綺麗だね」

 「そんなことどうでもいいよ。あの宇宙船の中に一緒に閉じ込められて欲しかった。家の中なんかに閉じこもってないでさ」

 「僕はもう空も地面も見たくない。綺麗な君を見たいだけよ」

 僕はこの後に言われることを察していたから憂鬱で、彼女の目を見ていられなくなった。でも、ずっと言いたかったし、言うべきだと思っていたから、こう言ってよかった。彼女は声のトーンを変えずに返答した。

 「じゃあ別れよっか」

 「そうだね」

 お前の隣なら安心できたのにな…………そう思うばかりだった。
 そう思うばかりだったよ。

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