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『目下の恋人』を読んだ話 ~「恋」という美しくロマンティックで野蛮なものについて~

一瞬が永遠になるものが恋
永遠が一瞬になるものが愛

辻仁成『目下の恋人』より

これは、辻仁成の短編作品『目下の恋人』の中で語られる、象徴的な台詞である。
「一瞬が永遠になる」というのは(現実にはあり得ないとしても)、そのロマンティックなレトリックを感覚的には理解できる気がする。しかし、「永遠が一瞬になる」というのは、少なくとも「愛」をポジティブなものと考えるなら、なかなか理解し難い。
この台詞をどう解釈するべきなのか。

一般論として考察するには無理があるので、あくまでもこの『目下の恋人』という作品における恋愛観、あるいは辻仁成がこの作品を通して語りたかったこと、という視点で論じてみようと思う。

主人公ネネちゃんを「目下の恋人」と他人に紹介するヒムロ。彼の祖父母は、結婚という「制度」に自分たちの関係性を定義づけられることを拒否し、籍を入れないまま子どもをもうけ、半世紀も共に過ごしている。
そして半世紀を経て今なお、彼らの関係は互いに「目下の恋人」である。
現代的な感覚で言えば、ただの事実婚にすぎないかもしれないが、彼らの中にあるのは、事実婚という「制度」にさえ縛られたくはないという、非常にプリミティブで野蛮な(しかし美しい)信念ではないだろうか。

この作品において「愛」は決して否定的なものではない。
ヒムロの祖母はこう語る。

「政府に誓うような愛をしたくはない。誰かに誓うような愛をしたいわけではない(以下略)」

確かに、考えてみれば「愛」は誓いを伴うものなのかもしれない。本来の「愛」とはそんなものではないはずだが、現代社会の規範の中で生きるわれわれにとって「愛」とはすでに、制度の中でしか成立し得ないものなのかもしれない。
それを保証し約束し、社会的に認められる契約として成立させる、その最たるシステムが結婚である。人は神に永遠の愛を誓い、政府に、社会に、その愛を誓う。

だが、翻って「恋」はどうだろうか。愛に対比した一般的なイメージでは、恋とはもっと刹那的で、盲目的で、愚かで、まるで砂糖菓子のように脆いもの、と考えられているのではないだろうか。
しかし、刹那的だからこそ、何者にも堰き止めることのできない水脈がそこにこんこんと湧き上がるのではないか。盲目的だからこそ、飽くことなくその人だけを一心に見つめたいと乞うのではないか。愚かだからこそ、見返りを求めることなくひたすらに相手を想えるのではないか。砂糖菓子のように脆いものだからこそ、掌で大切に包み込むように守りたいと願うのではないか。
そして、「恋」は、誰にも誓いなどたてる必要はない。あくまでも、私とあなたという主体の間にあるものだ。

「恋」が、「恋」のままで、私とあなたの間にあるのならば、それはきっと永遠に続くのだろう。

この作品の中では、「恋」が他者によって承認されてシステムの一部に組み込まれることで、「愛」という制度化されたものに成り果て、本来「恋」が孕んでいたエネルギーをあっけなく失ってしまうことを示唆しているように思う。

「恋」のままであれば、燃え尽きるような一瞬を、繰り返し、繰り返し、永遠に持続させることができる(逆に言えば、作中でも語られているように「いつ終えてもいい、とお互いを縛らない」ものでさえある)。
しかし、それを制度の中で「愛」という形に嵌め込んでしまえば、その一瞬のピークで全てが燃え尽きてしまう。永遠の「恋」を、制度の中に固定化することで「愛」という名のもとに空虚なものに変換してしまう。それは、「恋」の死であり、同時に皮肉にも「愛」の死でさえある。

ヒムロの祖父母は、恋を恋のままで成就させたい、そう願っているのだろう。だかしかし、そこには確かに「愛」が存在する。
何者に誓うわけでもなく、何者によって定義づけられるわけでもない、真っ裸の「愛」。

それこそが、人が求めてやまない「恋」というものの、あるべき形なのかもしれない。



※あくまでも、この作品における
 「恋」と「愛」についての定義を推察し、
 それに基づいた考察です。

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