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働くことと、そこにある快楽の話

 コピーライターとして仕事をするようになって、気がつけばはや30年ほどが経ちます。広告代理店やプロダクションから依頼を受けて仕事をすることもあれば、自分自身がディレクターとしてデザイナーやカメラマンをアサインして仕事を動かすことも多々あります。

 できることなら、ぜんぶ一人でやりたい。15年ぐらい前まではそんな風に思っていました。企画はもちろん、デザインもコピーもぜーんぶ自分ひとりで完結したい。もちろん、写真も自分で撮っちゃう。そういう人になりたいと、真剣に思っていました。昔はね。今はまったくそういう気持ちはありません。
 たぶんその頃のぼくは“作品”をつくりたかったんだと思います。「これ、ぼくが(一人で)つくったんです! ぼく(一人だけ)の作品です!」って、言いたくてしょうがなかったんだと思います。今になって、そう思っていた頃の自分を振り返ると、バカだなあって思うけど、当時はそれなりに真剣にそう考えていたんでしょうね。

 当たり前だけど、この仕事は一人で完結できるものではありません。完結できちゃうスーパーマンみたいな人も世の中にはいるんだろうけど、その人がつくるものは結局その人の“作品”になってしまう。ぼくたちの仕事は、それが“作品”になってしまったらおしまいだと思うんです。この業界で自分のつくったものを“作品”と呼ぶことが許されるのは、お仕事として発注されたものではなく自分自身のライフワークとして撮影した写真のことを、それを撮ったカメラマンさんが「ぼくの“作品”」って言う時ぐらいじゃないかと、個人的には思います。

 “作品”云々の件についてはまた別の機会にゆっくり話すとして・・・ぜんぶ一人でやりたいと思っていたぼくが、なぜ考え方が変わったのか、って話に戻りますね。それは、人といっしょにやる気持ちよさに気付いたからです。

 ぼくは中学の頃に吹奏楽部でトロンボーンをやっていました。中学生の部活レベルで、しかもコンクールではせいぜい県大会止まりなので技術的には大したことはないんです。でもね、ある時、部員全員で合奏しているときにそれまで経験したことがないような感覚を味わったんです。なんていうのかな、その場の空気の密度がものすごく濃密になったような、強烈な一体感みたいな感じ。中学生の貧弱なオツムでは、それがなんなのかイマイチよくわからなかったんですけどね。
 でも、大学生になってバンドなんかやるようになって、仲間とスタジオで練習していたときに、またその感覚を味わったことがあったんです。「あ、また来たコレ!」って思いましたよ。さすがに大学生になっていたぼくは、自分が感じている“それ”について、中学生の時よりはちゃんと理解できるオツムのレベルに成長していました(笑)。それは、“その瞬間、その場にいる者同士が、形にならない何かを共有しているという快感”だと思うんです。シンクロ率がものすごく高くなってる状態ね。

 話が遠回りしましたが、ぼくが仕事をぜんぶ一人でやるということに魅力を感じなくなったのは、“仕事”という状況や関係性の上においても、この“その瞬間、その場にいる者同士が、形にならない何かを共有しているという快感”を得ることができることを知ったからです。

 たとえば、何かの企画について何人かでブレストしてる時に、誰かがポロっと口にしたひとことがきっかけで見る見るうちにアイディアが膨らんでいって、さっきまで五里霧中でウンウン唸りながら手探りで這い回っていたのに、気が付いたらランボルギーニに乗ってあれよあれよという間に時速200キロで突っ走ってるようなことってありませんか? そういう時の、その場のムードがたまらなく気持ちいいと思うんです。というか、自分がその場にいて、みんなとその状況を共有していることが、ものすごい快感だと思うのね。「あっちに行ってみてもおもしろいんじゃない?」「いや、それもいいけど、こっちはもっと楽しそうだよ」って言い合いながら時速180キロでぶっ飛ばしてる、そういう感じ。
 その快感を知ってしまうと、一人でぜんぶやっちゃいたいなんて、てんでわかってないお子様だね、って感じです。

 ぼくは80歳まで現役で働くと公言していますが、まあ実際いつまでそれが叶うかはわかりません。でもそういう快感を、ほんの少しでも、一度でも多く味わいたい。それこそが、ぼくにとって働くことの意味だと思っています。

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