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娘の弁当を6年間作り続けた話

我が家の一人娘が中学生になった2008年4月から、高校卒業の2014年3月までの6年間、ぼくはほぼ毎日娘のお弁当を作り続けた。

きっかけは娘の中学校の入学式の数日前の夜、妻との何気ない会話。「あの子が中学に入ったら毎日お弁当が要るね」という話になった。そこで、ぼくが迂闊にもうっかり口を滑らせたのである。

「おれ、弁当作ろっかな・・・」
「は? そんなできもしないことを(失笑)」
「なにっ・・・できるし。作るし。」

うちの妻は「守れもしない約束をする男」が大嫌いなのである。やると宣言した手前、こちらも後には引けない。コピーライターに二言はないのである。今思えば、妻の奸智に見事に嵌められた気がしなくもないが、そんなわけで地獄の6年間が始まったのである。

何がつらいって、まず朝起きるのがつらい。ぼくは早起きが大の苦手なのだ。ひとたび眠りに落ちると、たとえ8時間寝ようが10時間寝ようが、目覚めてから30分ほどは生ける屍、まさにゾンビのような状態なのである。
そんな、かろうじて人の形を保っているだけの肉袋が、毎朝5:30に起床して弁当作りを行うのだから、それはもうとんでもないことだ。

起床直後の意識レベル・思考レベル共に著しく低下している状態でも、どうにか作業を遂行できる工夫として、冷蔵庫に貼ったホワイトボードに「明日の弁当のメニュー」を寝る前に書きこむことが習慣になった。
これは、非常に効果があった。仕事でもそうだが、「何から手を付けていいかわからない」状態を長期化させることが、いちばんの悪手だ。まともな思考力のある前夜の自分が「このメニューでいけ!」と伝えてくれているホワイトボードの走り書きは、キッチンに立ったゾンビ状態の自分にとって何よりも心強い味方だった。

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娘が中学2年生になると同時に、ぼくは10年間務めた広告代理店を退職し、18年間の会社員生活にピリオドを打って、フリーランスのコピーライターとして独立した。幸いにも独立当初から仕事に恵まれ、大忙しの日々が続いたが、仕事と弁当作りの両立はより一層過酷なものとなった。

明け方まで原稿を書いたり企画書を作成したりと、事務所でひたすらに仕事して、5:00になったら事務所を出て家に向かう。30分の道のりを歩いて帰宅し、5:30から弁当作りをスタート。6:30に妻と娘を起こし、シャワーを浴びて7:00頃ようやくベッドに倒れ込む。9:00か10:00には再び起きて事務所へ。そしてまた、翌朝5:00まで仕事。週に2回ほどは、21:00から1:00頃まで仕事関係の知人や友人と飲んで、事務所に戻って明け方まで仕事する日もあった。当時、平日の平均睡眠時間はせいぜい3時間半とかそれくらいだったと思う。
まあ、今考えてもよくまあ体を壊さなかったものだと、呆れるくらいめちゃくちゃだ。こんな生活が娘が高校2年生になる頃までは続いていた。こんな無茶をしても壊れない丈夫な体をくれた両親には、心底感謝している。

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最後の2年間あたりは、ずいぶん手抜きをすることも覚え、冷凍やレトルトもけっこう活用したし、時には「もうどうしても無理」モードになって、24時間営業のスーパーやコンビニの総菜にも世話になった。
そんなこんなで、後半は騙し騙しという感もあるものの、どうにか6年間の弁当作りの日々を乗り切ったわけだが、この経験を通して得たものもたくさんある。

まず、当たり前だが、
料理が上手くなった
これはまあ、言うまでもないだろう。一日一食とは言え、継続は力なり、である。特に、ほぼ毎回のように作っていた玉子焼きに関しては、めちゃくちゃきれいな玉子焼きを焼けるようになった。特技の一つと言っても過言ではない。よほど特殊な料理でなければ、冷蔵庫にあるもので適当にそれなりに美味いものを作る自信がついた。

そして、
段取り力がついた
最近あちこちで話題の「作り置きおかず」。あれがどうしても信用できない。衛生的に大丈夫なのか不安で仕方がない。なので、娘の弁当はほぼ100%、当日の朝に作ったものしか入れなかった。
そうなると、早朝の限られた時間の中で、数種類のメニューを並行して作ることになる。まな板や包丁を洗う回数を一回でも減らすには、どの順番で食材を切るのがベストか。いやでも段取り力が身に着く。

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でも、そんなことよりもいちばんの収穫は、
娘との絆が深まった
ということに尽きるだろう。
思春期の娘にとって父親というのは、肉親として愛すべき存在である反面、もっとも身近な異性として「異物」であり、ややもすると嫌悪や憎悪の対象にさえなり得る。よくドラマや映画で、「お父さんなんか嫌い!」「お父さん臭い、あっち行って!」「ウザい。話しかけないで」なんてのを見かけるけど、まさにああいうのは程度の差こそあれ、どこの家庭でも起こり得ることだろう。
独立を契機に仕事が忙しくなり、娘と話をする機会も減ったあの頃のぼくにとっても、これは他人ごとではなかった。
そういうことにならないためにも、娘のために毎朝作る弁当は、数少ない娘との「接点」だった。「美味いか不味いかはともかく、少なくとも弁当箱を開けて食べる時には、一瞬でもぼくのことを考えるかもしれないな」という思いがあったのだ。

月並みな表現だけど、あの弁当は、ぼくから娘への手紙みたいなものだったのかもな、と振り返って思う。

実際のところは弁当が功を奏したのかどうかは定かではないが、おかげで娘には「お父さんなんか嫌い!」的あからさまな反抗期もなく、成人してからは二人で買い物に行ったり、飲みに行ったりするくらいには仲良くしてくれている。

・・・と、ぼくは思っている。娘の真意はわからないけどね。


※挿入した画像は、実際に作ったお弁当の記録です。
ちなみに、めちゃくちゃ上手になったと豪語している玉子焼きは、こんな感じ↓

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