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巡拝note:午前六時の金龍山浅草寺(東京都台東区)

けさ、台東区浅草二丁目にある金龍山浅草寺にお参りをしてきました。
聖観音宗総本山、ご本尊は聖観世音菩薩。
浅草寺は、かつては天台宗に属していましたが、昭和25年(1950)聖観音宗の本山となる。

午前六時すぎの浅草の観音さまは、地元の方の参詣が多いように思われますが、スマホやカメラ片手の観光客と思しき人の姿も少なくありません。
そんな時間から訪れる人が?と思われるかもしれませんが、意外と境内に人はいるものです。

浅草寺 宝蔵門

午前六時には本堂が開かれ、朝のお勤めが始まり境内にお経の声が響きます。浅草寺の境内は24時間自由に往来できます。通勤通学で境内を通り抜ける人も少なくないと思います。
日中にくらべれば参拝者は少ない。東京あるいは日本を代表する観光地の賑わいをちょっと置いといて、早朝の浅草寺は祈りの場の様相が見えてくる。

個人的なことですが、このところ仕事が忙しく、少し心が少しささくれだっていたようでイライラしがちになっていました。こうして観音さまにお参りさせてもらって境内でひといきついているだけで、明鏡止水な心地になれるというもの。
凡夫の明鏡止水なんてタカが知れておりますが、凡夫だからこそ「気分」が重要だったりします。

浅草寺宝蔵門から本堂

さて、桔梗之介は台東区に住んでいます。浅草の観音さまへは徒歩10分くらいで行ける。あまたある神社仏閣の中、おそらく人生でいちばんお参りしているのが浅草の観音さまだと思います。南無。。。

ちなみに地名「浅草」は「あさくさ」と読みますが、お寺さんの「浅草寺」は「せんそうじ」といいます。「あさくさでら」とは申しません。
浅草にあるお寺だから浅草寺だとすれば「あさくさでら」が間違いとは言い切れない歴史はあるかもしれませんが、「せんそうじ」が正式名称です。

浅草寺 本堂

今朝はちょいと曇天でした。
さて浅草寺は寺伝によれば都内最古の寺院になります。創建は推古天皇の時代。以下は浅草寺のホームページより引用。

寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。

浅草寺ホームページより

ここでは浜成・竹成は漁師兄弟のようで、土師中知は土地の長のようですが、古い書物には土師真中知と家臣浜成竹成兄弟としている。土師真中知は都でやんごとなき人であったのだが故あって武蔵に流浪していたという。

仏教の公伝が6世紀半ばだとして、7世紀前半に都から遠い武蔵の国のとある村の長が聖観世音菩薩の仏像と分かるだろうかという疑問はある。それならば、かつては都にいて左遷かなにかの理由で都を追われた人であるほうが仏像にあかるくても不思議はないというもの。
しかし逆にいえば、当時の地方の村の長では仏教にあかるくないだろうという思い込みが土師氏流浪の説を産んだとも考えられる。

大化元年(645)に勝海上人が観音堂を建立し、観音さまを夢告により秘仏とする。以来いまも秘仏とされている。

天安元年(857)慈覚大師円仁が訪れ、御前立の観音像を安置する。円仁は浅草寺の中興開山として仰がれている。

天慶五年(942)平公雅が祈願成就により七堂伽藍を整備する。その後も浅草寺はたびたび災禍に見舞われながらも再建復興している。

浅草寺 本堂

公的な歴史書に浅草寺が登場するのは鎌倉時代の『吾妻鏡』である。
建久三年(1192)五月八日、鎌倉で行われた後白河法皇の四十九日法要に浅草寺から3僧が呼ばれている。
ということは鎌倉幕府草創期に浅草寺はすでに関東の大寺院であった可能性が高い。なおかつ源氏の崇敬が篤いこともうかがえる。

『吾妻鏡』に載る話としては不思議な事件がある。
建長三年(1251)三月六日、浅草寺の境内に「暴れ牛が現れて怪我人を出したという記事」が載る。されど元は「如牛者忽然出現奔走」とあり「牛の如き」であって「暴れ牛」とは定めていない。

浅草寺は坂東三十三観音の第十三番札所でもあります。関東一円にある札所ですが、東京都は浅草寺だけです。
「江戸自慢十三番目がこれくらい」
そんな川柳があるそうです。坂東札所の中でも随一の参詣者を誇る浅草寺が第一番でないことの不満と、江戸っ子の痩せ我慢気質のうかがえる川柳だと思います。粋〔いき〕というのは痩せ我慢の裏返しだとみている。

御朱印は本堂の西にある影向堂でいただけます。たしか朝8時からだったかな、ご確認ください。
坂東三十三観音と江戸三十三観音の観世音菩薩の御朱印と、浅草名所七福神の大黒天の御朱印がいただけます。大黒天は御朱印がいただける影向堂に安置されています。笑うセールスマンの喪黒福造を思い出させる大黒天です。

浅草寺 御朱印

これは令和四年の元日にいただいた御朱印です。ぴょんぴょん跳ねた感じが素敵でお気に入りの御朱印です。浅草寺はこれまで何度か御朱印をいただいてますが、さすがは坂東の札所、みなさん素敵な墨蹟です。残念だった記憶はない。御朱印は書き手によって同じ内容でも表情が変わってくるから面白いですね。

浅草寺 本堂から宝蔵門

今日お参りして気づきましたが、現在本堂の天井に描かれている川端龍子の龍図がはがされている。浅草寺のホームページによると、今夏、落剝してしまったようです。大きな本堂の天井のことなので、あまり見られないかもしれませんが申し添えておきます。

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