JW24 孔舎衛坂の戦い
【神武東征編】EP24 孔舎衛坂の戦い
河内国(かわち・のくに)の草香村(くさかむら)にある青雲(あおくも)の白肩津(しらかたつ)に上陸した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。
中(なか)つ国(くに)に入るため、斥候(せっこう:探索部隊のこと)を出して、いろいろ地形を調べることにした。
斥候役には、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)が就任した。
そして、数日後、務めを果たし、無事に帰還したのであった。
日臣(ひのおみ)「斥候から戻ってきたじ!」
サノ「御苦労じゃった。それで、如何であった?」
日臣(ひのおみ)「南の方に竜田(たつた)というところがあるんですが、そこなら、比較的、楽に行けるんやないかち、思うちょります。」
サノ「竜田か・・・。現在の奈良県南部の方から入るわけじゃな・・・。」
紀元前663年4月9日、一行は竜田に向かった。
しかし、道は狭く、険しく、並んで歩くことも困難な道であった。
ここで、小柄な剣根(つるぎね)がツッコミを入れた。
剣根(つるぎね)「全然、駄目ではないか! 日臣よ。どこが楽なのじゃ!」
日臣(ひのおみ)「わしのせいじゃないっちゃ。作者の陰謀っちゃ。」
こうして、一行は、再び白肩津に戻ったのであった。
サノ「やはり、胆駒山(いこまのやま)を越えねばならぬか・・・。」
ここで、剣根の弟、五十手美(いそてみ)(以下、イソ)と長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)(以下、イツセ)が会話に加わった。
イソ「胆駒山(いこまのやま)・・・今の生駒山(いこまやま)にござりまするな。」
イツセ「嫌な予感がする。」
サノ「どうなされました? 兄上?」
イツセ「いやっ・・・何でもない。行くぞっ!」
一行が山を登っていた時、事件は起こった。
突如として、矢の雨が降ってきたのである。
無数に降り注ぐ矢。
一行は、たちまち大混乱となってしまった。
サノ「どういうことじゃ!? 何者ぞ?!」
日臣(ひのおみ)「矢が無数に飛んできたっちゃ。隠れんと危ないっちゃ!」
剣根(つるぎね)「あっ! あそこに大きな木がありますぞ。あそこに隠れましょう。」
サノ「全員は無理じゃ! 如何(いかが)致す?!」
イソ「残りの者は盾で防ぐほかありませぬ!」
ある人「この木はまるで、母親(おも)のようだ・・・。」
サノ「誰じゃ?!」
ここで、博学の天種子命(あまのたね・のみこと)が説明を始めた。
天種子(あまのたね)「そこで、この地を母木邑(おものき・のむら)と名付けもうした。今の飫悶廼奇(おものき)は転訛(てんか)した呼び方にあらしゃいます。」
サノ「ここで『日本書紀(にほんしょき)』の説明をするとは!」
剣根(つるぎね)「こんな時に、正気か?! それに、今と言っても、奈良時代現在という意味であろう? わしらも生きておらぬし、読者も生きておらぬ時代のことを、今などと申したら、わけが分からなくなるであろうっ!」
イツセ「うぐっ!」
サノ「兄上?! 如何なされました?!」
イツセ「肘(ひじ)に矢を受けてしまったっちゃ・・・。」
サノ「ああ! 兄上!」
日臣(ひのおみ)「如何なさいますか? 我が君?!」
サノ「我らは日の神の子孫じゃ。その我らが、日に向かって戦っておる。これは天の道に背いているも同義。いったん退くぞ。弱そうに見せかけるのじゃ。そして、改めて祭祀をおこない、天照(あまてらす)様の威光を背にし、光に照らされた影を踏みながら、敵を攻めるのじゃ!」
イソ「我が君?! 天照大神(あまてらすおおみかみ)の力を借りると?!」
サノ「そうじゃ。迂回して、後方より回り込むのじゃ。天照様の威光を背にすれば、血を流さずして勝てるはずじゃ!」
サノ軍は山を下り、白肩津に逃げ戻った。
幸いなことに、正体不明の敵が追撃してくることはなかった。
疲れ果てた将兵を見回りながら、次兄の稲飯命(いなひ・のみこと)と三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと)(以下、ミケ)は語り合っていた。
稲飯(いなひ)「初陣(ういじん)は敗北に終わったな・・・。」
ミケ「戦いの地は、孔舎衛坂(くさえのさか)と呼ばれてるそうやじ。二千年後の東大阪市、善根寺町(ぜんこんじちょう)にある生駒山西側の坂のことっちゃ。」
稲飯(いなひ)「そうらしいな。近鉄(きんてつ)石切駅(いしきりえき)の北側に位置し、他にも、イツセの兄上が矢を受けた厄山(やくやま)や傷口を洗った龍の口霊泉(たつのくちれいせん)などが残っちょるみたいやじ。」
ミケ「反対側に位置する、生駒市(いこまし)北部には、敵が勝鬨(かちどき)を上げたという伝承地、勝鬨坂(かちどきざか)があるそうやじ。更に、長髄彦本拠地碑(ながすねひこほんきょちひ)という石碑もあるみたいっちゃ。」
稲飯(いなひ)「長髄彦(ながすねひこ)?」
ミケ「敵の名は、長髄彦という男らしいっちゃ。中つ国の豪族やじ。」
稲飯(いなひ)「そうか・・・。それが、敵の名か・・・。」
白肩津に戻ったサノたちは、悔しさのあまり、盾を立てて雄叫びを上げた。
士気は鼓舞(こぶ)され、衰える気配はなかったが、イツセの容体は重いようであった。
ここで、勇気を持って説明を始めた男がいた。
目の周りに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)である。
大久米(おおくめ)「盾を立てて雄叫びを上げたことから、白肩津は盾津(たてつ)と呼ばれるようになったっす。『記紀』編纂当時は、訛(なま)って蓼津(たでつ)と呼ばれていたみたいっすね。現在の東大阪市にある日下(くさか)周辺と言われてるっす。孔舎衛小学校の東には、楯津顕彰碑もあるっす。」
成すべきことを成した大久米は、雄叫びをする一行のところへと戻っていった。
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