【エッセイ】大人の喜び(1200)
喜びや幸せには大きく分けて、ふたつの種類があると思う。
喜び①=自らの快だけが満たされる
喜び②=他者の幸福により自らが満たされる
綺麗事ではなく私は娘たちのためなら命だって簡単に捨てられる。実際に自らの全てをすり減らして賃金を稼ぐという労働と言う形ですでにそれをしている。
いつかその輪から抜け出すために私はせっせとnoteを書いて文章力を研ぎ澄ましている。noteは私にとっての砥石である。稼ぐためのツールでは断じてない。だから誰かの文章に投げ銭しても自分の記事は有料には決してしない(前投稿の記載撤回)。
たまに熱心に教育をし過ぎて、元々は純粋にこどものためだった教育が自分の見栄のためだけにすり替わっている残念な親がいる。こどもはもはや自分の承認欲求(いい学校に行ける子を持つ完璧な親と言うプライド)を満たすためだけの存在になる。喜び②がいつの間にか喜び①にすり替わっているのである。
こどもに学の才があればそれはそれでいいかもしれない。しかし、そうでない場合は本来のこどもの適性や気持ちが置き去りにされてしまう可能性が高い。そうやって引きこもってしまったりニートになったりしてしまう子がいるとの話もよく耳にする。
今日は英検3級を中3の次女が受験するので会場まで付き添いで行った。今出川にある同志社大学新町キャンパスが会場だ。私立の名門校は校舎がオシャレで羨ましい。私は国立大学出身なので、名門私学の建物をみるといつもいいなーって思う。国立大学の建物はどの大学も本当に味気ない建物だ。最低の予算で組まれているから仕方ない。そこそこ金を持っている名門私学の建物を見ると私もこんなちゃんと大学みたいな建物のところで勉強したかったなといつも思うのだ。
あんなに小さかった次女が英検を受験するようになったその成長に胸が熱くなっていた。喜び②を噛み締めていたのだ。
ちなみにnoteのヘッダーは芸大志望の長女に作ってもらった。誰かのフォトギャラリーを使うのが嫌になったからだ。かと言っていつも上げられるような写真もない。それで長女に有償でデザインしてもらったのである。娘は特別な教育や訓練を受けていないのにとても絵がうまい。これも本当に羨ましい。私はどれだけ絵を練習してもいい絵が描けなかったのだ。絵を上手く描けるってのは本当に特別な才能だと思う。長女に絵の才能があるのも喜び②だ。
一般的に喜び①はこどもの喜び、喜び②は大人の喜びであると思う。
でも大人になったからと言ってこどもの喜びが全く無くなってしまうわけではない。
次女を英検会場に送り出し、見送って喜び②を噛み締めた次の瞬間、大学近くに必ずあるうまいラーメン屋をGoogleで調べて、喜び①を堪能してきたのであった。
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